克巳は、すぐに来た。
「克巳さん、すみません」
「いえ」
閉鎖されたショップは、今は大きなロビーのようになっていた。
「そこに座ってて下さい」
マキはそう言うと、一旦引っ込んだ。
コーヒーを持って再びロビーに行くと、克巳は言われたとおり、ロビーの椅子に座っていた。
克巳は、コーヒーを一口飲むと、急にこう言った。
「実は、薫が動いたんです」
「えっ」
克巳の話によると、薫が、直接東京本社に掛け合って、今回の調査にこぎ着けたらしい。
「そうだったんですか……」
マキは俯いた。薫もまた、路子の死をうやむやにしないために動いていたのか。
「ところで、その東京本社の人たちは今」
克巳の問いに、マキは答えた。
「今、支店長と話してます」
「わかりました。それじゃあ、僕が直接その人たちと話します」
「えっ」
マキは目を見開いた。
「でも」
「だって、マキさんがこの日記を持っていったら、この会社でのマキさんの立場が悪くなります」
「私はいいんです!」
マキは強く言った。
「このままうやむやになったら、路子先輩がかわいそうすぎます」
「でも、そのことで、今度はマキさんがいじめられるようなことになったらどうするんですか」
「その時は会社を辞めます。フラワーアレンジメントを習いながら、どこかの花屋に就職します」
はっきり言って、それは口から出まかせだった。
だけど、ここで克巳にすべてをまかせて知らんぷりしているのは、あまりにも無責任というものだ。
「わかりました」
克巳は頷いた。
「でも、僕にも一緒に行かせて下さい。僕は路子を助けてやれなかった。罪滅ぼしの意味も含めて、僕から日記を見せます」
「そうですか。――それじゃあ、行きましょう」
マキは、克巳と一緒に応接に行き、ドアを叩いた。
返事はない。マキはかまわずドアを開け、克巳を促して中に入った。
「君は……」
克巳を見た竹村支店長に、狼狽の色が浮かぶ。
「あなた方は?」
東京本社の男性の一人が、二人に問いかける。
マキが答える。
「私は、路子先輩の高校の後輩でした。こちらは路子先輩の友人だった人です」
「そうですか」
彼は、竹村支店長に視線を向けた。
「竹村さん、ちょっとはずしてもらえますか?」
「しかし……」
「はずして下さい」
強く言われた竹村支店長は、しぶしぶ応接を出た。
竹村支店長のいた席に、マキと克巳は座った。
東京本社の男性二人は、名刺をくれた。
年配の男性が新田敏雄、比較的若い男性が山川英樹とう名前だった。
克巳は、路子の日記をテーブルに置いた。
「路子の日記です。ここに、この会社で起こったことが全て書かれています」
新田が、日記を手に取って、ぱらぱらとめくる。
克巳はさらに言った。
「USBのテキストファイルでは、確実な証拠にはならないけど、路子の字で書かれた日記なら、きちんと鑑定すれば、立派な証拠になるでしょう」
「……わかりました」
新田は、日記を閉じた。
「これをお預かりしてよろしいですか?」
「結構です。ただ、大事な物ですから、必ず返して下さい。ここに送っていただければ結構です」
克巳は二人に、自分の名刺を渡した。
克巳に続いてマキが応接を出ると、竹村支店長が、居心地悪そうに、廊下に立っていた。
「竹村さん」
克巳は、まっすぐ竹村支店長に詰め寄った。
「あなたは、路子の内向的なところを直してあげようと思って、ショップの仕事をさせたとおっしゃいましたね」
竹村支店長は、返事をしなかった。
「でも、どうして内向的だといけないんですか。僕は、路子が好きでした。内向的な路子が……好きでした」
克巳が声を詰まらせながら、懸命に話すのを、マキは複雑な思いで聞いていた。
この人は――今でも路子が好きなんだ。
「それから」
克巳は指先で涙を拭うと、本題に入った。
「あなただったんですね」
「な、何がですか」
竹村支店長の声は、動揺しきっていた。
「路子を……」
克巳はそれ以上言えず、俯いた。
マキは、全身から血の気が引くのがわかった。
おそらくあの日記には、すべてが綴られているのだろう。
「支店長」
言葉を発することができない克巳に代わって、マキがおずおずと言った。
「今、あの方たちに、路子先輩の日記を渡してきました。隠されても無駄です。路子先輩が妊娠していたのは、つまり……」
「何を言うんだ」
竹村支店長は、何とか威厳を保とうとしているようだった。
「だって田口君、君が佐伯の恋人だったんだろうが」
「僕は、身に覚えがありません!」
克巳の声は、こわばっていた。
「そんな、いまどきの恋人が――」
その時、応接のドアが開き、新田と山川が出てきた。
「竹村さん」
新田が、竹村支店長に詰め寄る。
「あなたって人は……。すぐに警察へ行って下さい!」
竹村支店長は、黙って首を垂れた。
*
路子の日記の内容によると、路子が一人で残業していたところへ、呑み会の後で酔った竹村支店長がやってきて、
「どうして呑み会に出なかった」
と、絡んできた。
路子は呑み会に出なかったのではない。仕事が山積みになっていて、出られなかったのだ。
「何言ってるの。呑み会に出て、それからここに戻って仕事するって言うのが、正しいOLのありかたでしょ?」
あまりにひどい彼の言動に、路子が黙っていると、
「俺がちゃん教育してやる」
と、いきなり路子を床に押し倒した――。
竹村支店長は逮捕された。
警察で竹村支店長は、合意の上だった、と、お決まりの言い訳をしたが、通じなかったらしい。
もっともだ。
マキは新しい支店長に辞表を出し、会社を辞めた。
そして今、マキは東京のカフェにいる。
いつか、克巳と薫と三人で食事した店だ。
文彦が前に修行していた花屋に面接に行ったところだった。
マキもそこで修行して、自分の花屋を持ちたくなったので、そうした。
でも、マキが上京しようと決心したのは、もう一つ理由があった。
ほどなく、店に薫がやってきた。
マキが手で合図すると、薫はマキの前に座った。
「ごめん、待った?」
薫の言葉に、マキは首を横に振った。
二人でコーヒーを飲みながら、話題は自然に克巳と路子のことになる。
「俺、知ってたんだ」
「え?」
「知ってたっていうか、わかってたんだ」
薫は、タバコをもみ消した。
「古い考えかも知れないけどさ、あいつは嫁入り前の娘をどうこうするような奴じゃないよ」
マキは、思い出していた。
克巳と路子が、一度だけホテルへ行った時の話を。
だから克巳は、路子に結婚を持ち出すことができなかったのかもしれない。
「まあ克巳はつらいと思うよ」
普段は口数の少ない薫だが、今日はよく話した。
「路子ちゃんが他の男にやられたなんて、認めたくなかったんだよ。それくらいなら、自分が罪をかぶってた方が増しだって、そう思ってたんじゃないかな」
マキは、黙って頷いた。
「でも俺、言ったんだ。事実はいつか現れるから、早めに言った方がいいって」
「そうですか……」
「ところで」
コーヒーカップを置いた薫は、話題を変えた。
「今日の面接の結果はどうだったの?」
「ええ、来月からでも来て下さいって」
文彦が口を利いてくれたのだろう。マキの面接は、驚くほどスムーズに運んだ。
今すぐ返事はできないが、多分採用できるという話だった。
「東京へ出てきても、克巳に時々メールしてやってくれよな」
薫の言葉に、マキは複雑な心境で頷いた。
でも。
マキは、もう二度と克巳とコンタクトは取らないつもりでいた。
上京を決めたのは、克巳を忘れるためだった。
克巳はまだ、これからもずっと、路子を愛しているのだ。
マキが割って入ることなどできない。
そんな状況で、克巳と交流するなど辛すぎる。
だから、その思いを断ち切るために、東京へ出てくることにしたのだ。
*
そして、マキが東京へ旅立つ日が来た。
「お前、本当によかったのか?」
新幹線の、マキの隣の席で文彦が言う。
「克巳さんに別れの挨拶しなくて」
今日は、文彦が引っ越しの手伝いのために、ついてきてくれる。
「いやあね、お兄ちゃん」
マキは、わざと笑ってみせた。
「克巳さんにそんなこと言ったら、何のために東京へ行くのかわからないじゃない」
「ふーん」
マキは、克巳にはずっと連絡を取っていない。
メールをもらっても、返事をしていない。
つらいけど、克巳を断ち切るしかないのだ。
と、その時。
シートにもたれていた文彦が、半身を起こした。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「うん。ちょっとトイレ」
文彦は急に、そう言って席を外した。
同時に、座席の横の窓を叩く音がした。
「えっ?」
振り向くと。
そこには。
「克巳さん!」
そう。
そこに、克巳が立っていたのだった。
何が何だかわからない。
わからないけど。
窓の外の克巳は、ポケットからスマホを取り出して、タップした。
ほぼ同時に、マキのスマホが着信をつげる。
「もしもし」
「必ず……」
克巳の声だった。
「必ず迎えにいきます。少し時間を下さい」
「克巳さん……」
二人はスマホを手に、見つめあった。
「……ありがとうございます……」
マキが言えば、克巳は、空いている方の手を、ガラスに当てた。
マキもそうした。
二人は、笑顔を交わした。
「お兄ちゃんね」
新幹線が動き出してから、マキは唇をとがらせながら言った。
「克巳さんに余計なこと言ったの」
「本当に余計だったのか?」
と、文彦はしれっとして言う。
「それは……」
俯くマキの頭を、文彦はぽんぽんと叩く。
「俺はただ、少しでも妹のことを思ってくれるなら、見送りに来てくれって言っただけだぞ。来たのは彼の意思だぞ」
「うん……」
兄に悪態をつきながらも、マキは幸せに満たされていた。
確かに、思いがけないサプライズだった。
「ま、これから遠距離になるけどさ、何とかうまくやっていけよ」
マキは返事をせず、一人微笑んだ。
時間がほしいと克巳は言った。
もちろん、路子に対して区切りをつけるための時間だ。
だけど。
必ず、必ず迎えに来てくれる。
今は、その言葉を信じよう。
物理的な距離は離れていくのに、淋しさを感じないマキだった。
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