数日後。
その日も、比呂は劇団の稽古に出ていた。
純と瑞枝は、言葉少なめに夕食を食べていた。
「店長」
瑞枝は箸を止めて純を見た。
「元気出しましょう。まだ店始めたばかりなんだし」
「そうだな」
今日、店に岩井社長がやってきて、店の売上げが少ないと言われたのだった。瑞枝も岩井にお茶を出したので、話は少し聞いていた。
自分では順調だと思っていたので、ショックだった。
そんなことを考えて、夕食の席でも沈んでしまいがちだった。
その時、玄関で音がした。
比呂が戻ってきたのだ。
「お帰り」
純が声をかける。
「飯は?」
「うん、伊藤さんと済ませた」
どうやら、圭介と飲んで来たらしい。頬が少し赤い。
でも、その割には早いし、比呂も浮かない顔をしている。
「何かあったの?」
純が尋ねると、比呂は座りながら話した。
「劇団、今度の公演で解散しちゃうんだ……」
「えっ?」
純と瑞枝は、同時に声をあげた。
「伊藤さんが、アメリカへ行くんだ。本格的に演劇の勉強したいからって」
「そっか。淋しくなるな」
純は劇団にいた頃、圭介の手伝いをずっとしていた。圭介が、機会があったら渡米したいと言っていたのも覚えている。
「うん。――それに」
瑞枝が入れたお茶を一口飲んで、比呂は続けた。
「伊藤さん、舞衣を連れて行くって」
「ええっ!?」
またしても、二人同時に声をあげてしまった。
「俺もびっくりしたよ。伊藤さんが舞衣のこと好きだったなんて、全然気がつかなかった」
と、比呂は吐息した。
舞衣は、比呂が少年院に入っている間に、平塚政男という恋人ができて、一緒にセロリに入った。
その後、政男は退団、舞衣とも別れたようだったが。
圭介と舞衣がそういうことになっていたとは、純も知らなかった。
その時。
純の胸の奥がうずいた。
いつもの発作だ。
そう思う間もなく、全身を痛みが駆け抜けた。
純は思わず、その場に倒れ込んだ。
「純?」
「店長?」
比呂と瑞枝の声が聞こえたのを最後に、純は意識を失った。
気がついたら、病院のベッドの上だった。
「気がついたか」
ベッドの横に、村上が立っていた。
「……先生……」
純は、ゆっくり起き上がった。
「今回の発作は、少し大きかったね。丸一日眠っていたよ」
村上はそう言って、開いているドアの向こうに目をやった。誰かがいるらしい。
ほどなく、比呂が入ってきた。
「純!」
「比呂……」
「よかった……。瑞枝も今までいたんだけど、昨夜寝てないから、帰らせたんだ」
「そう……」
「比呂君、帰りがけに受付に声かけて」
村上はそう言って、病室を出た。
目を覚ましても、比呂の顔を見ても、いつものように安心できない純だった。何かが、心に影を落としていた。
「比呂」
純は、少しずつそれを吐き出した。
「この前、比呂のこと殴ったろ。比呂がお母さんに『産んでくれって頼んでない』って言った時」
「うん」
「本当は、俺も時々そう思うんだ」
そう。
純を産んだ次の日に、逝ってしまった母親。
命がけで産んでくれても、母と同じ病気が純の中に残った。
そんなにまでして、産んでくれなくてもよかったのに。そう思ったことは少なくない。
あの時殴りたかったのは、比呂ではなく、純自身だったのかしれない。
「生命が重いんだ」
純は、ぽつりと言った。
「こんなに苦しい思いをしてまで生きなきゃならない。母親が自分の生命と引き換えに俺を産んだから。だから、生命が重いんだ」
「純……」
比呂は、励ましの言葉を探しているようだった。
だけど、不器用な比呂には、そう簡単に言葉は出てこないだろう。
だから純は、比呂に帰ってもらうことにした。
「比呂、帰ってくれないかな」
純はベッドに横になり、比呂に背中を向けた。
ほどなく、比呂が出ていく気配がした。
「びっくりしたんだよ。この前お店に行ったら、岡沢入院してるって言うから」
窓際で花を活けながらそう言うのは、幸絵だ。夏らしいノースリーブを着ている。それだけに、リストカットの跡が生々しい。
正直に言って、まだ気分が滅入っている純だったが、それを見て、ついに幸絵に声をかけた。
「高森は大丈夫なのか」
「えっ?」
「まだ通院してるんだろ」
幸絵は、心療内科でカウンセリングを受けていると聞いていた。
「大丈夫よ、もう」
幸絵振り返り、純に笑みを見せた。
「私ね、派遣の仕事が決まったの。保険会社なんだけどね。私は外回りじゃなくて、パソコンの入力の仕事なの」
「そう」
「不思議よね」
幸絵は、再び窓の外を見た。
「結婚できなくなった時は、もう人生終わりだと思ったけど、こうして仕事が決まってみると、また一からやり直そうって気持ちになれるからね。考えてみれば、まだ三十前だものね。まだ先は長いのよね」
「うん」
「岡沢も頑張って。岡沢は私より更に若いんだから、まだまだいけるよ」
「ありがと」
幸絵の話を聞いているうちに、少しずつ心の霧が晴れていくようだった。
それからも、純の病室には、必ず誰かがいた。
比呂や瑞枝、圭介、祥子、そして舞衣も来ることもあった。
夜は主に、比呂と圭介が交代で来ていた。もっとも、二人とも台本にかじりついていて、看病らしくもなかった。純は純で、比呂に道具を持ってきてもらって、ベッドの上でアクセサリーを作っていた。時々消灯を無視して、看護師に叱られたりした。
純が入院して一週間目の日は、瑞枝が来た。
「いい天気だな」
純が言えば、瑞枝はびっくりしたように純を見た。
純が笑顔だったからだろう。
生命が重い。
ずっとそのことを考えていた。
だから、ずっと笑っていなかった。
だけど。純を心配して来てくれるみんなの顔を見ているうちに、ようやく気分が晴れてきたのかもしれない。
「外へ出ようか」
「そうですね」
瑞枝は、嬉しそうに立ち上がった。
「車椅子借りてきます」
「いい。歩いて行ける」
純はベッドから降りた。
「暑くないですか?」
「平気だよ」
純と瑞枝は、木陰のベンチに腰かけて、ジュースを飲んでいた。
「あの、店長」
瑞枝は、言いにくそうに切り出した。
「この間のあれは……」
「え?」
「あの、私に……キス……したじゃないですか……」
「ああ……うん……」
純は返事をしながら、心臓がざわざわするのを感じていた。発作のそれとは違っていた。
「あれは……その……どういうつもりで、というか……」
瑞枝は俯いた。
「瑞枝ちゃん……」
「ごめんなさい。ずっと気になってたんです」
「そう」
あの時純は、どうしようもなく瑞枝をいとおしく感じた。
だからキスしたのだ。
そして、今。
純の横で困った顔をしている瑞枝を見て、純自身もわかっていなかった気持ちがはっきりした。
ずっと一緒に仕事してきて瑞枝は、純にとって、とても大きな存在になっていた。
「瑞枝ちゃん」
純は、瑞枝の手の上に、自分の手を重ねた。
「あのキスは、瑞枝ちゃんが好きだからだよ」
「店長……」
瑞枝は俯いたまま、笑みを浮かべていた。
「……ありがとうございます……」
「ごめん。俺がはっきりしなかったから、辛い思いさせちゃったね」
「いいえ……」
二人の上に、夏の日ざしが降りそそいでいた。
「――だから、みんなで店長のこと励まそうって決めたんです」
中庭から病室に戻る途中で、瑞枝は純に話した。
純が比呂に、生命が重いと言ったあの日、比呂はみんなを店に集めて、自分たちにできることはないかと持ちかけ、純を一人にさせないように、みんなで純を見守ろうということになったのだった。
「話しちゃったこと、お兄ちゃんには内緒ですよ」
「わかったよ」
その事実を聞かされた純は、悪い気がしなかった。
そんな風にみんなに思われている。
生きていることも、まんざら悪くない。