梅雨になった。
 天気に比例するように、純は熱を出して、何日も寝込んでしまった。
 比呂と瑞枝が交代で看病してくれた他に、圭介も見舞いに来てくれた。
「悪いな。何日も店あけちゃって」
 みんなが帰って、比呂と二人だけになった時に純が言うと、比呂は、
「何、水臭いこと言ってんだよ」
 と、笑みを見せた。
「お前が病気だってことは、最初からわかってて、俺も瑞枝もこの店やってんだ。何も気にしないで、ゆっくり休めよ」
「うん……」
「瑞枝はどうだか知らないけど、俺は昔から、体だけは丈夫でね」
 でも、純が劇団に在籍していた頃、比呂は合宿の最中に熱を出して、合宿を途中で引き上げたことがあった。
「その時だけだよ。それだって、十何年ぶりだったんだから」
 比呂は話した。
 三つの時、はしかで寝込んだ時に、母が付き添ってくれたいたことを、おぼろげに覚えていること。
「お袋に看病してもらった記憶は、その時だけ。俺が八つの時、親父と離婚して、瑞枝を連れて出ていったからな」
「一度あれば十分じゃないか。俺なんて寝込んでばっかりなのに、母親に看病してもらったことなんて、一度もないんだよ」
 純の母親は、純と同じ病気で、純を産んだ次の日にこの世を去った。
「俺なんて、たった一日だけしか、母親と一緒にいられなかったんだから。比呂は八年も一緒にいられたんだから、いいじゃないか」
「……そうだな」
 比呂は照れ隠しのように、純の布団を直した。
「もう寝ろよ」
「うん」
 純は目を閉じた。


 それから三日後の夜のことだった。
 純の熱は下がらず、その夜はひどくうなされたような気がした。
 胸に重いものがのしかかってくる感覚に、何度も襲われた。
 ふと目を覚ますと、知らない年配の女性が純の枕許にいた。
「気分はどう?」
「あの、……」
 怪訝な顔をする純に、彼女は名乗った。
「比呂と瑞枝の母です」
「ああ、どうも」
 純は起き上がった。
「あまりひどい熱なので、お医者様に来ていただいたの。今、皆さんあちらの部屋に」
「そうですか……」
 比呂と瑞枝の母は、確か祥子という名前だった。瑞枝の履歴書に書いてあった。
 少しの沈黙が流れて、祥子は困ったように言った。
「比呂がね。店長さんに付き添ってあげてほしいって言うの。店長さん、ご両親がいらっしゃらないんですってね」
「ええ……」
 純は、かいつまんで話した。
 純を産んだ翌日に死んだ母親。
 母を追うように、交通事故で逝ってしまった父親。
 それから純は、施設にいたこと。
 劇団に入ったことや、比呂との出会いも話した。
 比呂は思い出したんだろう。純が母親に看病されたことがないと言った時のことを。それで自分の母親を貸してくれたというのか。
 あんなに母に再会するのをためらっていた比呂なのに。
 案外、いいところがあるんだ。
 純は満たされた気分になった。
 全部話し終えると、祥子は言った。
「私もね、若い頃は宝塚に夢中だったの。演劇が好きなところは、やっぱり親子なのね」
 今度は、祥子の話を純が聞いた。
 宝塚に夢中だった祥子は、男性に興味を示さないまま、三十歳を過ぎた。
 三十代で独身というのは、今でこそ珍しくないけれど、祥子の時代は大変なことだった。
 そこで、お見合いして、半ば強制的に結婚させられ、比呂を瑞枝を設けた。
 だけど、そんな形の結婚は長続きせず、離婚することになった。
「私は、比呂も瑞枝も連れていきたかった。だけど、仕事もなかったし、二人育てる自信がなくて、仕方なく瑞枝だけを連れていったの。比呂はきっと、そのことを今でも恨んで――」
「そ、そんなことないですよ」
 純はあわてて言った。
「比呂はいい奴ですよ。ただ、ちょっと不器用なんですよ。お母さんのことも、きっとわかってくれますよ」
「ならいいんだけど」
 祥子は、淋しげに微笑むと、
「熱はどうかしら」
 と、純の額に手を当ててきた。
「熱はだいぶ下がったようだけど……」
 祥子は、今度は純の首筋に手を当てた。
「汗かいてない?」
「ああ、そうですね」
 確かに、パジャマの背中が冷たくなっていた。
「着替えはどこかしら」
「そのタンスの、下から二番目に」
 祥子は、言われたところから、替えのパジャマを出した。
 着替えようとした純だが。
「あの、着替えますので……」
 ためらいがちに言うと、
「あ、ああ、そうね。じゃあ、あちらのお部屋にいるわね」
 と、祥子は部屋を出ていった。
 さすがに、初対面の女性に裸を見られるのは抵抗があった。


 着替えが済むと、純は部屋を出た。
 隣の部屋には、祥子の他に、比呂、瑞枝、圭介、村上といったいつものメンバーが揃っていた。
「純、起きてきて大丈夫なのか」
 比呂の言葉に、頷く。
「あ、ここに座るか」
 圭介が、自分の席を少しずれて、純の場所を作る。
 純は、そこに座った。
 テーブルには、ビールやジュースや、ちょっとしたスナック菓子などが散乱していた。
「店長、何か飲みます?」
 瑞枝が声をかける。
「うん。ジュースもらおうかな」
 純が答えると、瑞枝は早速紙コップにジュースを注いで、純の前に置いた。
「伊藤さんが村上先生を呼んでくれたんだよ」
 と、比呂は言う。
 今日、何となくみんながこの部屋に集まってきた時、純はひどい熱に浮かされていた。
 純の様子を見た圭介が、これでは心臓にも負担がかかってよくないということで、村上に電話して、純の様子や、こんな薬を持ってきてほしいという話を細かく話した。
 そういえば、純の左腕には、点滴の跡がある。
「顔色よくなったね」
 村上が、安心したように言う。さすがに村上は、ここに来たのは仕事の一端ということで、ビールは飲んでいないようだった。
「でも、明日は念のため病院へ来なさい」
「はい」
 純は、ジュースを飲みながら答えた。


「まだ少し熱っぽいから、もうしばらく店には出ない方がいいね」
「はい。ありがとうございました」
 純が診察室を出ると、比呂と瑞枝が待っていた。
 比呂は運転手としてついてきた。瑞枝一人に店を任せてもよかったが、平日の昼間であまり客の来ない時間帯だったので、店を閉めて瑞枝も一緒に病院に来た。
「先生何だって」
 比呂の問いに、純が答える。
「もうしばらく店には出ない方がいいって。悪いな」
「俺たちはいいけどさ。お前こそ、あんまり無理するんじゃないぞ」
「うん」
 三人で病院の廊下を歩いていると、急患とおぼしき女性の患者が、ストレッチャーで運ばれていた。
 左手首に包帯を巻いていて、血がにじんでいる。
 自殺未遂だということは、明らかだった。
 その患者の顔を見て、純の表情が凍った。
「……高森?」
 そう。
 その女性は、この前店に来てくれた、高森幸絵だった。
「高森!」
 純は、ストレッチャーが運ばれた方向に向かって走り出した。
「純! 走っちゃだめだ!」
 比呂が、続いて瑞枝も追いかけてきた。

 幸絵が運ばれた処置室の前の廊下に、三人でなすすべもなく立っていた。
 どうして幸絵が自殺なんか。
 婚約して、一番幸せな時ではなかったのか。
 純がそう思っていると、処置室から初老の男女が出てきた。
「あの……」
 純は、彼らに声をかけた。
「高森幸絵さんのご両親ですか?」
 言われて二人は少し驚いたようだが、頷いた。
 そして、幸絵の父親が口を開いた。
「君は」
「専門学校で幸絵さんと一緒だったんです」
「そうですか」
 今度は、幸絵の母が言った。
「先月会社を結婚退職して、今は家にいたんです。今朝なかなか起きてこないから、様子を見に行ったら……」
 その時、処置室から医師が出てきた。
「先生」
 幸絵の父が、医師に駆け寄る。
「先生、幸絵は」
「大丈夫ですよ。命には別状ありません」
 医師の言葉に、安堵の色を隠せない幸絵の両親だった。