「CROWN」のライブも無事終わり、しのぶは、英和と達彦にバス停まで送ってもらった。
「ありがとうございました。ここで」
 バス停に着くと、しのぶは頭を下げた。
「バスが来るまでいるよ」
 英和が言ったが。
「いいです」
 しのぶは、丁重に断った。
 バスが来るまで誰かと一緒にいる。そのシチュエーションは靖哲を思い出してしまう。
 そのことを感じたのか、英和は、
「じゃあ、気をつけて」
 と、踵を返した。
「それじゃ、お休み」
 達彦も続いた。
 二人の背中を見送っていたしのぶだが。
「あのっ」
 しのぶは、思い切って二人を呼び止めた。
 二人が振り向く。
 言おう。
 今言わなければ、決心が揺らいでしまう。
「次の『ANGEL』の練習、いつですか?」
「しのぶちゃん……?」
 英和が、わずかに表情を動かす。
 しのぶは続けた。
「今まですみませんでした。私、これから練習に出ます」
「――」
 英和と達彦は、顔を見合わせた。
 そして、驚いたようにしのぶを見ると、再びしのぶに駆け寄った。
「しのぶちゃん、本当に?」
 英和の問いに、しのぶは頷いた。
「無理しなくていいんだよ」
 達彦も言うが。
「無理なんてしてません。私、歌いたくなったんです」
「やったー!」
 英和と達彦は、同時に叫んだ。
「こうしちゃいられない」
 英和は、携帯を取り出した。
「達彦、お前修にメールしろ。俺は博に」
「う、うん」
 達彦も携帯を取り出し、二人は夢中でメールを打ち始めた。
 そんな二人を見て、しのぶは改めて思った。
 今日、ひたむきに歌う譲から、歌う勇気をもらった。
 大丈夫、歌える。


     *


 「ANGEL」が活動再開したことは、譲の耳にも届いた。
 あの時しのぶにチケットを渡したのは、間違いではなかったんだ、と、譲は自負していた。
 その日も譲は「K」でアルバイトをして、終わる時間になったので、更衣室で簡単に着替えていた。
 エプロンをはずしながら、ティールームで夕食を食べていた「ANGEL」のメンバーとしのぶ、そして、カウンターで話していた瑞江と八重の話を思い出す。
「昨日、一美と一時間も電話しちゃったよ」
「何々、靖哲君とののろけ話?」
「そうそう。いいよねえ、幸せな人は」
 そんな話をして、しのぶに聞こえたらどうするんだと思って、ひやひやする譲だった。
 着替えを済ませた譲が再び店内に出てくると、ちょうどしのぶが立ち上がっていた。
「すみません、私、そろそろ」
「あ、じゃあ、俺が送るよ」
「いや、俺が」
「ANGEL」のメンバーが口々に言うのを、しのぶが制する。
「一人で大丈夫です」
「あの」
 その様子を見ていた譲が、思わず彼らの前に出た。
「俺もちょうど帰りだから、俺が送りますよ」
「あ、そう?」
 英和が、安心したように言う。
「それじゃあ頼むよ」
 だけど、当のしのぶは、困ったような顔をしている。
「しのぶちゃん、行こう」
 譲が促すと、しのぶは小さく頷いた。


「何で離れて歩くの?」
 譲が振り返ると、しのぶは立ち止まった。
「俺が襲うとでも思ってるの?」
「別に、そういうわけじゃ……」
 立ち止まった二人の距離は、二メートルといったところか。
 譲の背後を歩いているしのぶに何かあった時、これじゃあ譲が気付かないかもしれない。
 譲は無言で、しのぶに手招きした。
 しのぶは戸惑っているようだった。
「こんなに離れて歩いてたら、俺が送ってる意味ないだろ」
 譲が苛立って言うと、しのぶは少し近づいた。
 仕方がないので、譲の方からしのぶに歩み寄って、並んで歩く。
「……あの……」
 しのぶは、俯いたまま、言いにくそうに言う。
「……この前は、チケット、ありがとう……」
「別に。しのぶちゃんのせいでドタキャンになったんだから、見に来ないっていうのは無責任ってもんだろ」
 本当は、こんな言い方したくないのに。
 譲は自分自身に対して吐息した。
 だけど、その吐息の意味を、しのぶは勘違いしたようだった。
「……ごめんなさい……」
「いいよ、もう過ぎたことなんだから」
 どうしてこうなんだろう。
 麻美の時もそうだったが、譲はどうも、女の子の前でいい顔をするのが苦手らしい。
「しのぶちゃん、俺と同じ高三だろ?」
 話題を探しながら、何となく譲は話した。
 しのぶは、黙って頷いた。
「受験だろ? バンドなんかやってて、家の人、何も言わない?」
「うん……」
 しのぶの反応の鈍さに、譲は少しいらいらした。
「……いろいろあったけど、今は反対してない」
「いろいろって?」
「いろいろと言ったら、いろいろ」
 靖哲のことがからんでるのかな? 譲はちらっと思った。
「『K』に集まる人の中に、好きな人がいるとか?」
 譲がちょっと意地悪く言ってしまうと、それまでうつむいていたしのぶは、顔を上げて声を大にした。
「そんなこと、どうだっていいでしょ!」
「あ、そうなんだ」
「もう、やめてよ」
 しのぶは譲を追い越して、どんどん歩いていった。
 譲は慌てて追いかけた。
「しのぶちゃん、送るよ」
「いいよ、もう」
 しのぶは、小走りに行ってしまった。
 残された譲は、立ち止まった。
 どうしてなんだろう。
 しのぶと一緒にいると、いらいらしてしまう。
 同じ学校だけあって、しのぶは麻美を思い出させる。
 だからだろうか。


     *


 バス停に着いたしのぶは、一人大きなため息をついた。
 譲が自分のライブにしのぶを誘ってくれた時、譲の唄を聴いた時、譲を少しでもいい人だと思ったのが間違いだった。
 あんなに、人の心をかき乱すことばかりいう人だったなんて。
 譲は知っているはずだ。しのぶと靖哲の顛末を。
 知っててあんなことを言うなんて、何て意地悪な人なんだろう。
 もう一度吐息して大通りの向こう側に目をやると、ちょうどバスがやってきた。
〈まあ、今は〉
 しのぶは、自分に言い聞かせた。
〈OBライブに向かって、一生懸命練習するしかないね〉
 しのぶの前で、バスが停まる。
 しのぶは、バスに乗り込んだ。
「ANGEL」は、「ラブソング・フォーユー」をしばらくレパートリーから外すことにした。
 いつか、もう一度誰かのために歌えるようになったら、また歌うつもりだ。
 その代わり、涼香が貸してくれた、岩本準也のライブDVDの最後に披露されていたあの曲を、新しく「ANGEL」のレパートリーにした。
 英和たちは、最近、しのぶをよくほめてくれている。
 自分でもわかっていた。
 失恋する前より、ずっとうまく歌えていること。
 恋と失恋を体験して、女としての階段を上ったのかもしれない。
「OBライブか……」
 しのぶは一人、誰にも聞こえないように呟いた。
 OBライブ、靖哲は来ると言っていた。
 本当に来るだろうか。
 ――やっぱり、靖哲に会いたい。


 一週間後のバンドの練習の帰り道も、しのぶは譲に送ってもらっていた。
 しのぶは、ずっと黙って歩いていた。
「何考え込んでるの?」
「えっ? べ、別に」
 しのぶは、譲から目をそらした。
 譲の声が続く。
「風間さんがOBライブに彼女連れて来るって、知らなかった?」
「……知ってたんだ、やっぱり」
 しのぶは、追い詰められたように答えた。
「私が靖哲のこと好きだったって」
「知らない人はいないよ」
「でしょうね」
 しのぶは、半ば自棄になっていた。
 今日、練習の後で夕食を食べていた時、アルバイトの瑞江と八重の話が聞こえた。
 二人の会話によると、来月のOBライブに、靖哲が一美と一緒に来るらしい。
 せっかく靖哲に会えると思って喜んでたのに、一美が一緒に来て、二人の仲を見せ付けるというのか。
 第一一美は、工業高校とは何の関係もないじゃないか。何様のつもりなんだ。
「彼女の見てないところで、風間さんを奪い返すつもりだったの?」
「そんなんじゃない!」
 譲のいつもの調子に、しのぶは困りながら答えた。
「……ただ、会いたかったの」
「会ってどうするつもりだったの?」
「どうするなんて、そんなんじゃない。会えればよかったの」
「好きな人を見ていられればいい、って? 俺、そういうの、ぞっとするね。見られる方の身にもなれよな」
「そんなの、鳥羽君に関係ないでしょ!」
 しのぶは、思わず大声を出した。
「まあ、そうだけどさ」
 譲は、いつもの調子で続けた。
「でも、当日は気をつけた方がいいよ。みんなが二人を祝福してる時に一人ですねてるってのもかわいくないから」
 ばしっ!
 譲の言葉の最後は、平手打ちの音に消された。
 譲は苦笑して、ぶたれた頬を押さえた。
 しのぶの手のひらもじんじんしている。相当痛かったに違いない。いい気味だ。
 しのぶは何も言わずに、大股で歩き始めた。
「ごめん、しのぶちゃん、言いすぎた」
 譲がついてくるが。
「ついてこないで!」
 しのぶは、譲を振り切るように走り出した。
 バス停まで走って、息を弾ませながら振り向くと、譲の姿はなかった。
 男と女の足だ。本気で追いかけてくるなら、追いつくことはできただろう。
 何を考えてるんだ、あの人は。
 ――だけど。
 ベンチに座りながら、しのぶは考えた。
 会ってどうするか聞かれたら、困ってしまう。
 ただ会いたいだけだったら、一美が一緒でもいいじゃないか。
 一美だって、友達なんだから。
 でも。
 靖哲と一美が仲むつまじくしているのを見るなんて、とても平静ではいられない――。
 そんなことを思っていると、バスがやってきたので、しのぶは立ち上がった。


     *


 午前二時。譲は、他に誰もいないコインランドリーで、回る乾燥機を前に、ビールを飲んでいた。
「何だよ、しのぶちゃんなんて。悲劇のヒロインしちゃってさ。何で俺が殴られなきゃならないんだよ」
 少しいい気持ちになって、独り言を言う。
 確かに、さっきはちょっと言いすぎたとは思う。
 でも、間違ったことは言っていない。
 好きな人を見ていられればいいとか、よく女の子は言うけど、好きでもない女の子にずっと見られているなんて、気持ち悪いじゃないか。
 ――女の子は、わからない……。


「じゃあ、OBライブも、この譲のお父さんのCDの曲中心にやる?」
 俊一郎の問いかけに、バンドのメンバーは頷いた。
「このCD、結構かっこいいもんな」
「そうだな」
 譲は、少しいい気分になって頷いた。
「EXTRIA」のアルバム。譲たちよりも前にこの世に生を受けたCD。
「私、『ラブソング・フォーユー』またやりたいです」
 キーボードの弘子が言うと、俊一郎は、
「そうだよな」
 と、とろけるような笑顔を見せた。
 譲は苦笑した。
 俊一郎は、弘子が好きなのだ。
 弘子だって、まんざらでもなさそうだ。
 それが見え見えで、何となく笑えてしまう。
 俊一郎は、机の上のノートに、「ラブソング・フォーユー」と書いた。
「他にやりたい曲は?」
 俊一郎の言葉に、メンバーたちは口々にやりたい曲のタイトルを告げた。
 結局、OBライブでやる曲は、このCDの曲が三曲、最近のヒット曲から三曲になった。
「じゃあ、曲が決まったところで」
 弘子は立ち上がった。
「すみません、私、今日歯医者なんです」
 弘子は手際よく、キーボードを片付け始めた。
「俺がやっとくからいいよ」
 俊一郎が言うが。
「いいです。私の楽器なんですから」
 弘子はそう言って、キーボードを片付け終わると、
「お先に失礼します」
 と、部室を出た。
「お疲れ様~」
 みんなの声が後を追う。
 こういうところは、弘子は実にしっかりしている。俊一郎はいい子に目をつけた。しのぶや麻美みたいな女の子だったら、こっちがやるとも言わないうちに、
「片付けお願いしま~す」
 とか言ってさっさと出て行ってしまうだろう。
 だいたいしのぶは、「ANGEL」の練習の後、いつも手ぶらでスタジオを出てくる。ボーカルで楽器がないにしても、機材くらい持ったらどうだ。
「譲、譲?」
 俊一郎が肩を叩く。
「あ、ああ」
 譲は我に返った。
「何ぼんやりしてるんだよ。練習するぞ」
「そうだな」
 気がつくと、みんなスタンバイしている。
「よし、やるか!」
 譲は、自分自身に気合を入れた。


 その日の帰り道。
 譲はデパ地下で夕食を買うために、大通りを歩いていた。
 デパートの近くの楽器店で、足を止めた。
 ロック少年としては、こういう店は素通りできない。
 中に入ろうかな、と思っていると。
 店のドアが開いて。
 中から。
 ――しのぶが出てきた。
 譲と目が合ったしのぶは、困ったように、あるかなきかに頭を下げると、譲の横を通り過ぎて行った。
「あのさあ」
 譲は、思わずしのぶを呼び止めた。
 しのぶが振り返る。
 譲は、しのぶに歩み寄った。
「あの」
 次に譲は、自分でも思っても見なかった言葉を口にしていた。
「一緒に晩飯でもどうかな」
 言ってみて、譲は後悔した。
 付き合ってくれるわけがないじゃないか。
 いつもしのぶを困らせて、傷つけてばかりいる譲に、付き合ってくれるわけがないじゃないか。
 だけど。
「……いいよ……」
 意外にも、しのぶはOKの返事をした。
 譲はほっとしたが、自分がその時どんな表情をしていたかはわからない。
 しのぶは、少々困惑しているようだった。
「じゃあ、こっちの店」
 譲は、たまに行く洋食屋に行こうと、しのぶの表情には気付かないフリをして歩き出した。