麻里亜は小走りに、駅から春人のアパートまでの道のりを歩いていた。
 手には、焼いたばかりのクッキーの袋。
 春人は昨日夜勤で、今日の昼間は休みなのだ。
 麻里亜も休みだったので、朝からクッキーを焼いて、春人に持って来たのだった。
 少し迷ったが、どうにか春人のアパートを見つけた麻里亜は、階段を上がって、春人の部屋の呼び鈴を押した。
 ドアが開く。
 次の瞬間。
 麻里亜は驚きのあまり、持っていたクッキーを落としそうになった。
 ――そこには、恵美が立っていたのだった。
「あら」
 恵美も、少し驚いたようだった。
 どういうことなんだろう。
「あの、春人――相沢さんは」
「今いないわよ」
 恵美は、冷やかに言った。
「入って待つ?」
「……」
「どうぞ」
 恵美はちょっと意地の悪い笑みを浮かべて、ドアを大きく開けた。
 麻里亜は中に入った。

「そこに座って。コーヒーでいい?」
 恵美は当たり前のように、春人の部屋のキッチンに立っていた。
 麻里亜が何も答えられないうちに、麻里亜の前に、コーヒーが入ったマグカップが置かれた。
「お砂糖とミルクは?」
 麻里亜は、無言で首を振った。
 ブラックコーヒーが好きなわけではない。
 今この状況でコーヒーを飲む気になど、とてもなれないのだ。
 恵美は、自分もコーヒーを飲みながら、麻里亜の向かい側に座った。
「どうやら春人は二股かけてたみたいね」
 恵美は面白そうに言う。
 麻里亜は、絞り出すように答えた。
「……あの人は、そんな人じゃ……」
「あら」
 恵美は、マグカップをテーブルに置いた。
「あなた、春人の何を知ってるっていうの? 私の方がずっと長い付き合いなのよ」
 聞きたくない。麻里亜は思った。
 春人はいつだって麻里亜に優しかった。
 それなのに。
 恵美の言葉は容赦なかった。
「春人はそういう男なの。いろんな女を手玉に取るの。私は割り切って付き合ってるけど、あなたそうじゃないでしょ?」
「私たちは、そんなんじゃ……」
「手作りクッキー持ってきて、そんなんじゃもないんじゃない?」
 恵美は、冷やかな笑みを浮かべた。
「そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ何よ。――ああ、まだ寝てないってこと?」
 あまりにストレートな恵美の発言に、麻里亜は傷ついていた。
 それに気付かないのか、気づいていてわざと意地悪しているのか、恵美はつづけた。
「なんだ、春人が手玉に取った女以下なんじゃない。――それとも、名前がマリアだから、既成事実がなくても春人の子供を宿すことができたりしてね」
 麻里亜はたまらなくなって、立ち上がった。
 そして、クッキーをテーブルに置いたまま、コートを持ったまま、靴をはくのももどかしく、アパートを出た。
 外に出て、コートを着ながら、麻里亜はふと思った。
 ――こんな時、普通の女の子なら泣くんだろう――。


 翌日。
 勤務を終えた麻里亜が更衣室に行くと、春人が追いかけてきた。
「ちょっといいかな」
「うん……」
 恵美のことを言うんだ。麻里亜は身構えた。
 二人でテーブルに着くと、春人は切り出した。
「あのさあ、俺の兄貴が医者なんだけどさ」
 麻里亜は一瞬頭が空白になった。
 恵美の話じゃないのか。
 そんな麻里亜に気付かず、春人は続けた。
「麻里亜、一度精神科で診てもらった方がいいんじゃないかな」
「えっ?」
 春人が何を言っているのか、容易には理解できなかった。
「ほら、前にここで倒れてただろ。精神的なものが原因なら、ちゃんと医者に診てもらった方がいいと思うんだ」
 麻里亜は、自分が青ざめるのがわかった。
「……私が気違いだって言うの?」
「そうじゃないんだ。精神科って、そういうところじゃないんだよ」
「春人が私のこと、そんな風に思ってるなんて知らなかった!」
 麻里亜は立ち上がった。
「麻里亜、とにかく聞いてくれないかな」
「知らない! 出てって! 私、帰るの!」
 麻里亜は、エプロンを外しはじめた。
「麻里亜――」
 春人がなおも何か言いかけるのを、麻里亜は聞かなかった。
「出てってって言ってるでしょ!」
「……」
 春人は根負けしたように、黙って更衣室を出て行った。
 麻里亜は、外したエプロンを持ったまま、その場に座り込んだ。
 春人が、麻里亜を気違いだと言ったわけではないことくらいわかっていた。
 ――ただ、恵美のこと、弁解でもいいから説明してほしかったんだ。
 そして麻里亜は、再び思っていた。
 ――こんな時、普通の女の子なら泣くんだろう――。


 春人にはわからなかった。
 どうして麻里亜があんなに怒ったのか。
 やっぱり、いきなり精神科なんて言っちゃいけなかったのだろうか。

 数日後の夜、恵美が春人の部屋にやってきたので、二人は久しぶりに関係を持った。
 この前は昼間だったので、そういう雰囲気にはならなかった。
 そういえばこの前は、恵美はクッキーを焼いてきてくれたっけ。
 恵美との付き合いは長いけど、そういうのは初めてだった。
「もう、こういうことしてくれないと思ってた」
 春人の万年床で、恵美は言った。
「どうして」
「だって春人、麻里亜さんに心変わりしちゃったかと思った」
「えっ?」
 不意を突かれて、春人は言葉に詰まった。
 恵美は、意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「麻里亜さん、この前ここに来たのよ。――あのクッキーは、麻里亜さんが持ってきたのよ」
「何だって?」
 春人は起き上った。
 恵美も万年床から出て、服を着ながら、淡々と、麻里亜に言ったことを話した。
「――だから私言ってやったのよ。名前がマリアだから、春人と関係結ばなくても妊娠するんじゃないかって」
「どうしてそんなことを言ったんだ!」
 春人は怒鳴った。
「そんな怖い顔しないで。春人、変よ。麻里亜さんのことになるとムキなって」
 恵美はそう言い残すと、玄関に向かった。
 その時、春人は気づいた。
 だからだ。
 だからあの時麻里亜は、あんなに怒ったんだ。
 春人の部屋に恵美がいたことを、きちんと説明しないといけなかったんだ。麻里亜は、それを聞きたかったんだ。
「待てよ」
 春人は、恵美を呼び止めた。
「鍵を置いて帰ってくれ」
「何よ、それ」
「いいから」
「そんなにあの子が大事なの?」
 恵美は玄関のドアを開けた。
「鍵を置いて行けって言ってんだろうが!」
 再び声を張り上げた春人だったが、恵美はそのままアパートを出て行った。
「……」
 春人は、しばらく茫然とその場に座っていたが。
 こうしちゃいられない。
 急いで服を着て用意すると、アパートを出て、車を走らせた。
 麻里亜に会わなければ。
 会って、話さなければ。
 恵美とのことをどんな風に弁解するかは、考えていなかった。
 とにかく麻里亜に会わなければ。
 春人はそんな気持ちで、麻里亜のアパートに向かった。


 麻里亜は、春人に精神科の話をされて以来、帰っても何をする気にもなれず、寝る時間まで部屋の隅で膝を抱えて考え事をしていた。
 あれから、春人ともぎくしゃくしてしまった。
 どうしてあんな風に言ってしまったのだろう。
 どうして恵美のことを聞けなかったのだろう。
 そんな思いが、堂々巡りをしていた。
 時計を見ると、十一時を回っている。
 そろそろ寝るかと思った時、呼び鈴が鳴った。
 誰だろう、こんな時間に。
 のぞき窓からのぞいた時、麻里亜は思わず、声に出してその人の名前を言ってしまった。
「春人……」
「麻里亜、話を聞いてくれないかな」
 春人はまだ精神科の話をするつもりなのだろうか。
 それとも、恵美との話をするのだろうか。
 いずれにしても、こんな遅い時間に来られても困る。
「何も話すことなんかない! 帰ってよ!」
「少しでいいんだ」
「帰って! 帰らないと警察呼ぶわよ!」
 麻里亜は玄関の明かりを消すと、部屋に戻った。
 そして、深い自己嫌悪に陥っていた。
 ――どうして素直になれないんだろう。聞くのが怖いからって。
 麻里亜は再び、部屋の隅で膝を抱えた。

 どのくらいそうしていただろう。
 麻里亜の携帯が、メール着信を告げた。
 携帯を手に取ると、春人からだった。
 麻里亜は短く迷って、文面を見た。
  
 恵美に話を聞いた。つらい思いをさせてすまなかった。恵美が人妻と知りながら、淋しさを埋めるために付き合っていた。でも、もうしない。今は麻里亜がいるから、淋しさを埋める必要はない。恵美との関係は清算するから、許してほしい。クッキーありがとう。おいしかった。

 ディスプレイを見ながら、麻里亜はまたも思った。
 ――こんな時、普通の女の子なら泣くんだろう――。