「こんなことするのも、遊びでしょ」
 春人の万年床で、恵美がぼんやりとつぶやく。
 春人は答えない。
 黙って万年床を出ると、服を着はじめた。
「わかってるのよ」
 恵美も春人にならった。
 相沢春人は二十六歳。一つ年上の草野恵美と同じレンタルショップに勤めて二年になる。
「私、帰るね」
 恵美は、黙っている春人をよそに、さっさとコートを着て、ブーツを履いて帰ってしまった。
 春人と恵美のこんな関係は、二人が同僚になってから、ずっと続いている。
 二人は、同じ日に入社したので、そういう風になるのに、そんなにきっかけはいらなかった。
 ただ、問題が一つ。
 恵美は主婦パート。つまり、恵美には夫がいるのだ。子供はいないようだが。

 春人は、二十二歳まで、プロのミュージシャンを目指していた。
 二十二歳の時、プロになることを断念した春人は、夜の仕事を中心にアルバイトをしては、いろんな女性と夜を共にすることで、心の空白を埋める生活をしていた。
 そして、やはり少しでも音楽に関係のある仕事をしたいと思い、このレンタルショップに就職した。
「いらっしゃいませ。ご返却のご予定は」
 その日も、そんな言葉を繰り返しながら、カウンターに立つ春人だった。
「相沢君、時間だからもういいよ」
 七時。店長が声をかける。
「はい、それじゃお先に」
「お疲れ様」
 春人の勤務時間は、その日によって違う。二十四時間営業の店なので、深夜勤務の日もあるが、今日は日勤だった。
 やれやれとエプロンをはずしながら、更衣室に向かう。
 更衣室のドアを開けた時。
〈えっ〉
 春人は思わず、息を飲んで立ち尽くしてしまった。
 更衣室の床に、ロングヘアの女性が倒れていたのだった。
 更衣室とは言っても、制服はなく、エプロンを着けるだけなので、男女兼用になっている。
 倒れている彼女は、確か、三ヶ月前からここでアルバイトをしている中川麻里亜。春人と同い年だった。仕事をなかなか覚えないし、お客様に対する態度も悪いと、恵美がこぼしていた。
 春人は、麻里亜を揺すり起こそうと思った。
 でも、麻里亜の表情は、まるで眠っているように穏やかだった。
 春人は少し考えて、麻里亜を抱き上げた。


 麻里亜が目を覚ますと、見覚えのない天井が最初に見えた。
「気がついた?」
 声のする方を向くと、同じレンタルショップに勤めている先輩の、相沢春人がいた。
「……相沢さん……」
 麻里亜はわけがわからなかった。今日の仕事を終えて、更衣室に入り、ロッカーを開け、鏡に映った自分の顔を見たところまでは覚えているのだが。
 麻里亜は、半身を起こした。
「……ここは?」
「俺の家。中川さん、更衣室で倒れてたんだよ。俺、中川さんち知らないし……」
「そうだったの。ごめんなさい」
「どっか悪いの?」
 春人に訊かれて、麻里亜はどう答えていいかわからず、適当にはぐらかした。
「一種のヒステリー。のようなもの」
 春人には通じなかったのだろう。春人は困った顔をして、そこに座っていたが。
「あ、そうだ。家の人に連絡しなきゃ、心配してるよ」
「一人暮らしだから。家族はあってないようなものなの」
「そう……」
 麻里亜の受け答えに、春人は困惑しているようだった。
「医者呼ばなくて平気?」
「大丈夫よ」
「じゃ、もう少し横になってたほうがいいよ。まだ顔色悪いし」
「うん」
 春人に言われるままに、横になった麻里亜だが、ふと、部屋の一点で視線を止めた。
「ねえ、ギター弾くの?」
「えっ」
 部屋の隅には、ギターが置かれていたのだった。
「弾いて」
「……それより、眠った方がいいよ」
「いいから」
「そう、じゃ、ちょっとだけ」
 春人はギターを持ってくると、やさしいメロディを爪弾いた。

 心地よいギターの音色に、再び眠ってしまった麻里亜が目を覚ますと、春人の姿はなかった。
 キッチンから、いい匂いがしている。
 麻里亜は布団を出て、部屋を出ると、キッチンに春人の姿があった。
「ああ、起きた?」
 春人が声をかけてきたので、麻里亜は頷いた。
「ごめんなさい。私、帰るね」
「飯食っていけよ。すぐできるから」
「いいよ」
「でも、二人分作っちゃったから、食べてってくれないと困る」
 春人がそう言うので、麻里亜はぎこちなく微笑んだ。
「……それじゃあ、ごちそうになろうかな」
「じゃあ、そこに座ってて」
 春人がキッチンのテーブルを指すので、麻里亜はそうした。
 ほどなく、麻里亜の前に、チャーハンが置かれる。
「ビールでも飲む?」
「あ、私お酒飲めないの」
「そう」
 春人は、麻里亜の前に、ウーロン茶の入ったコップを置いた。
「いただきます」
 テーブルに向かい合って、二人で食べ始めた。
「おいしい」
「それはよかった」
 春人は、嬉しそうな顔をした。
 しかし、その後の会話に詰まってしまった麻里亜は、自分が倒れていた理由を話すことにした。
「さっきお店でね」
「うん」
 春人は、スプーンを置いた。
「女子高生のお客様がね、姉が妹を殺すドラマがどうのこうのっていう話をしてたの。そのこと思い出したら、ふーっと意識が遠くなっちゃって」
「それで倒れてたんだ」
「うん」
「でも、どうして」
 麻里亜は、本題に入った。
「私、妹を殺したの」
「えっ」
 春人は言葉を失ったようだった。
 麻里亜は、自分の過去を話した。
 麻里亜は、母親がレイプされてできた子供だった。
 そのためか、妹の瑠奈とはいつも区別されていた。
 麻里亜はだんだん、瑠奈に嫌味を言ったり、瑠奈をいじめることで、事故を保つようになった。
 そしてある夜、瑠奈はバスルームで手首を切って死んだ。
 遺書にはこう書いてあった。
「私が生きていると、お姉ちゃんが不幸になります」
 霊安室で茫然としていた麻里亜は、母にぶたれた。
 そして、
「人殺し!」
 という言葉を浴びせられた。


 麻里亜は、そこまで話して黙った。
 その時を思い出したかのように、遠い目をしていた。
 そんな麻里亜を見て、春人は心が痛んだ。
 そんな過去を背負って生きてきたなんて。
「でもさあ」
 春人は、言葉を選びながら言った。
「中川さんだって、愛されてたと思うよ」
「どうしてそう思うの」
「麻里亜って、いい名前だから。聖母様のお恵みがあるようにってつけたんだろ、きっと」
「そうかな……」
 麻里亜は、悪い気がしていないようだった。
「相沢さんは、どうして春人って名前なの?」
「さあ、ちゃんと聞いたことないな」
 春人は四月生まれだから、きっと春に生まれたという意味で、春人という名前になったのだろう。
「でも、いい名前だね」
 麻里亜は微笑んだ。
 春人は、それに答えるように言った。
「じゃあ、これからは名前で呼び合おうか」
「うん!」
 麻里亜の笑顔がますます輝くのを見て、春人も何だか嬉しかった。
「さて、私、帰るね。ごちそうさま」
 麻里亜は立ち上がったが。
「――やだ。私、コートとカバンどうしたっけ」
「ああ、まだ店の更衣室だ。取りに行こう。
 春人も立ち上がり、車のキーを取った。
「大丈夫、一人で行ける」
 麻里亜が言ったが。
「いいから」
 春人は、麻里亜を押すようにして、玄関に行った。
 放っとけない。春人は思った。
 麻里亜は、放っとけないという印象を受ける人だった。
 春人は、今恵美が部屋に来なかったことを安堵しながら、部屋を出た。

 車の中で春人は、自分のことをかいつまんで話した。
 春人は昔、アマチュアバンドのボーカルを務めていた。
 ところがある日、春人の作った曲が、他のバンドに盗まれた。
 他のメンバーたちは、春人の不注意だと春人をせめて、春人はバンドを脱退せざるを得なかった。
 そのことがあってから、別のバンドに入る気もしなくて、プロへの夢も薄れていき、何となく毎日を過ごすようになった。
 それでも、少しでも音楽に携わった仕事をしたいと思って、レンタルショップに就職した。
 ――いろんな女と関係を持ったことは言わなかった。
 話を聞いた麻里亜は一言、
「春人もいろいろあったんだね」
 と言った。

 翌日。
 春人がレジの裏でDVDの整理をしていると、恵美がやってきた。
「今日、行ってもいい? 新しいDVD買ったのよ。一緒に見よう」
「うん……」
 春人は返事をしながら、胸の奥に雲が漂うような感覚に捕らわれていた。

「中川麻里亜さんね、評判悪いよ」
 春人の部屋でDVDを見ながら、恵美はまた麻里亜の話をした。
「お客様に対して愛想がないし、ミスも多いし。今までもちょくちょく仕事変わってきたみたいよ。ここだって、長続きしないんじゃないの」
 恵美の口から麻里亜の悪口が出るのが、春人はあまり気持ちよくなかった。