アメーバピグは2011年頃から遊んでいた。ブログネタを中心に、ブログを書いていた。

Amebaの中で友達も何人かできた。自分は20代前半で、ものすごくピグにハマり、

思い出すととても懐かしく、うれしい気持ちになる。

あの頃の友達たちは今元気だろうか。

PC版のピグが終了したことをきっかけに、ログインする機会が劇的に減った。

でも、その後もぼちぼちブログは書いていた。

 

今日、なぜかログインして過去の自分のブログを覗いてみた。

なんというか、あの頃こんなこと書いていたのか、若すぎる、幼すぎる、恥ずかしすぎる、とか

色々な感情が湧いてきた。

当時は特に誰に向けて書いていたわけではないけれど、今思うと、まさにここに読者がいた。

自分が書いたものを、何年か後に自分で読み返したことで、人間は年を重ねると考えが変わるということを

実感した。

同じ一人の人間でも、考え方は別人のように変わる(私だけ?)。

 

過去の自分と会うのって、変な感覚。

今この瞬間って、結構あいまいだ。

ということで、未来の自分に向かって、今、書きます。

 

山のふもとでの仕事は、今後どうなるかわからない。

・スピード第一、感情でなく優先順位をつけて取り組むこと。

・統計とデジタルを自分の希少性をアピールするための武器にすること。

・忘れないように復習すること。

 

新たな住居を手に入れた。

・整理整頓、スッキリと。

 

健康面。

・歯が命。

・筋トレ。

・睡眠。

 

家族。

・直感を排除し接すること。

・増やすこと。

 

趣味

・継続すること。

作品の中盤から違和感を覚え始め、読了した瞬間もその違和感が解消されることが無かった。

その違和感は、キャシー・Hら提供者が、自分が生を受けた目的や運命を知らされた後も、大きな抵抗もなくそれを受け入れ死を迎えるという設定だ。

 でも、もしこの施設のような環境で育てられたとしたら、果たして抵抗する意識は芽生えるだろうか。もしかしたら私も、生死は別として、「提供」のように未来が固定されてしまった枠組みの中で一生を終えるようなことになってはいないだろうか。巻き戻せない「時間」を犠牲にしながら死に向かって少しずつ、しかし確実に進んではいないだろうか。どうすれば気付き、抵抗するパワーを得られるだろうか。

 

また、エミリ先生は自身の居場所を突き止め訪問してきたキャシーにこう言う。「将来に何が待ち受けているのかを知って、どうして一生懸命になれますか?」と。

私たちは、将来に何が待ち受けているのかを正確には知ることができない。そして、できるなら知りたいと思っている。だが、知ったところでどうしろというのだろう。もし遠くない未来に命が尽きるような出来事に遭遇することがわかってしまったら、私はどう生きるだろうか。運命に抗ってほど手に入れたい何かを渇望しているだろうか。

 

人はいつか死ぬ。提供は、それを回避するための手段の一つであり、今後確実に技術は進歩するだろう。だが、まだ今のところは確実に存在し、それがいつ訪れるか予測不能な死を前に、「提供」が選択可能なものとして実現してしまうその前に私は、有限である時間の使い方を改めて見つめなおす必要があるようだ。

今日は土曜日。

 

良く晴れた日だった。

 

昼下がりにソファで昼寝をした。

 

ご飯を食べた後に新聞を読んでいたら眠くなって、少し寝ようとしたら、2時間くらい寝てしまった。

 

宅配のベルで目が覚めた。

 

届いたものを部屋に飾った。

 

休みの日の有意義な過ごし方がわからなくて、それについてずっと悩んでいて、もう10年くらい経つ。

 

でも本当は、有意義な休日の過ごし方なんて、無いのだと思う。

 

有意義な人生について考えなければならない。

 

有意義な仕事をしていない人に、有意義な休日なんてない。