お義母さんが、

一度私が見て貰っている先生に、
子供達の事を聞きに行っておいで

と、ある日言ってきた。


私の人生は主人の人生の寄り添いなのに、
私の人生を見て貰う事もなく、そんなの行く必要ない


と思っていたが、お義母さんに押し切られて、
子供をお義母さんに預けて、主人と二人で聞きに行く事にした。

先生は私と会った第一声が、
「兄弟に感謝が足りていない」と言った。
そうだ、私は感謝が出来ない人
だから今もこんな不満を持っているんだ
そう思った。

鑑定を進めていき、
主人がお手洗いに行った。
その時、暫く間があき先生が私を見つめて言った。

「本当にこの人でよかったんか?」

私は、心の底からぴんときた。


「…やっぱり私が感じてきた事はそういう事だったのか。。。」

たった一言だったけど、
今まで押し込めてきた私の心の声を認められた気がした。
先生は、微妙な顔をしている私を見て続けた。

「でももう子供もいるからね。
別れたら子供を不幸にする。
子供を幸せにしないといけない。」

私はまるで見えない柵に囲まれた気持ちになった。
でも、子供を一番に考えなければ、
幸せにしてあげないといけない。
そう思い、子供の教育に打ち込む事にした。

その夜、お義母さんが鑑定について聞いてきた。
勿論、この人でよかったの?というものは、伝えなかった。
お義母さんは、子供の事、主人の事について
言われた内容で一喜一憂していた。

そして、


「あんた達が結婚する時も見て貰ったんよ。
春ちゃんの事は、
大草原の中に浮かぶ太陽の様な人

って言ってたよ。
だから結婚しても間違いないって言われて、
大丈夫やって思った。」

主人は、
「田舎出身だからな。」
と、また的外れな事を言っていた。

太陽の様な人なんて…
自分に当てはめるには勿体ない表現だと思った。
それと同時に、そんな人にならなければ、と思った。


名古屋での引っ越しの一件、
主人の勝手な行動、
またワンオペ家事と育児。
何より家政婦以上、家族以下の主人の態度に、
私も心の余裕がなくなっていった。

辛いなんて思う自分が悪い
自分が耐えればそれで上手くいく

常に自分を悪者にしていた。
しかし、ある時勇気を出して、一度喧嘩をした。
喧嘩といっても、私が一方的に思った事を言うだけのもの。
その時は主人は、何も言葉を言わず、
泣き散らす私の気が済むまで話を聞いていた。

「私はただしんどい時に家族として寄り添っていきたい。
結婚してから『大丈夫?』と聞かれた事もなく、
どんなに熱があっても、過呼吸でも、不安でも、
必死で子供を守ってきた。
でもあなたは私と話し合わないから、私の気持ちも、
体調も分からない。
それって夫婦なのかな?」

その話し合いの後でも
『大丈夫?』という言葉はなかった。
分からない人なんだ…
そう納得するしかなかった。
でも子供の為に機嫌よく、楽しく振舞った。
子供達には、主人の悪口は一度も言った事もなく、
言う必要もないと思った。

「お父さんはいつも私達の為に、
お仕事一生懸命頑張っているからね!」

いつも伝えた。
家にいる時は、主人は子供好きで世話をする時もあるので、
子供達もお父さんが大好きだった。
子供達が笑顔になる度に、
これでいい、これでいいんだ。
そう思った。


誰かを悪く思う事は、心が痛かった。
ましてやそれが家族なら尚更だった。
自分が幸せでない、と思いたくない気持ちもあった。
子供達にもそんな人間になって欲しくないと思っていた。
だから結局は自分だけを責めていた。
それが一番楽だった。


私がよくなれば、全て上手くいくんだ。
頑張ろう。



そのうちに東京へまた転勤する事になった。
私は東京では東日本大震災にあい、
子育てをするにも、

歩いているだけで「邪魔だ!」と言われる街には

戻りたくないと思った。
次何かあった時は、両手で子供達の手を握り、
新幹線に乗れる場所、横浜に住もうと決めた。

横浜はおしゃれな場所もあるが、
私は都会は苦手で横浜の下町に住んだ。

私の気持ちも転勤する度、子供が生まれる度、
子供が進学する度に、夫婦の事を考える余裕がなくなった。
主人はますます忙しくなり、家にも殆どいなかった。
いつも大変な時、
誰かの助けが欲しい時にも誰にも頼れなかった。
自分一人で子供達の為に乗り越えた。
家にいても、トイレがつまれば、
「つまったよ。」
と、報告されるだけだった。
一人でホームセンターへ行って、
一人で買い物して、一人で詰まりを直して…
そんな事ばかりだった。


主人は抜けている所がある為、
それが見えてしまいいつもフォローしていた。
でも子供の為と思うとやり過ごす事が出来た。

下の子が幼稚園に入り、やっと時間が出来た。
自分の為にも、子供達の為にも、ビジネスを始めようと思った。
評価もされない主婦だから、

自分を認める目に見える成果が欲しかった。

一度父に言われた、
「留学までしているのに、すぐ結婚ってなぁ…」
と、言われた事をどうしても晴らしたかった。

輸入ビジネスのスクールに入り、
新しい世界にワクワクした。
最初は上手くいなかった。
赤字も出した。
それでも諦めず続けた。

一番軌道に乗り始めた時、家を買った。
家がずっと欲しかったので、とても嬉しかった。
ご近所の皆さんにも恵まれて、幸せだった。

この年、幼稚園のバザー委員もあたってしまった。
この幼稚園は、子供が年長の時には役員があたる。
そして、更に年長のお母さんは全員参加で、
三月に子供達の為に何か発表しないといけなかった。
一年間は幼稚園に従事しないといけなかった。

しかし、
上の子の習い事の発表会がバザーの日にあたってしまい、
身勝手ながらバザーの日は休ませて欲しいとお願いした。
すると役員のお母さんに責められ続けた。
一人でどんなに事前の準備をしても、
一人で搬入しても許して貰えず、悪口も言いふらされ、
どうする事も出来なかった。

私が悪いのだから…
他の人に迷惑かけているのだから何を言われても仕方がない。

息子が楽しく幼稚園に通える様に謝り続けた。
主人も海外出張が入ってしまい、仕事だから…と、
それ以上何もなかった。

ビジネスも回し、
他のバイトもしていたので、心も体も崩壊していった。
眠る暇もなく、ただ時間や予定が来る度に、
身体が操り人形の様に動かされるかの様だった。
もう気力も体力も何もなくなっていった。
それでも相変わらずお弁当は作り続け、
引っ越しをした為に子供達の送り迎えまでする事になった。
小学校幼稚園と行くと、朝の時間帯なら家に帰るまで、
40分以上かかった。
混んでいれば1時間だった。

どうしようもなくなった私は、
娘に発表会を休んで欲しいとお願いした。
情けない母親だと思った。

娘は、
「発表会は大丈夫だよ。バザー私も手伝うね!
行った事ないから楽しみ!」
と、笑顔で言ってくれた。
愛に溢れた言葉。
涙がはらはら流れて止まらなかった。
子供に愛情を上げるのが母親だと思っていたのに、
子供からいつも愛情を貰っていた。

ある日子供達とお風呂に入っていた時、
右手が痺れ、顔まで引きつり始めた。
子供に顔の引きつりを見せない為に右手で顔を覆った。
しかし引きつりは止むこともなく、
痺れが喉へ到達した時、息が出来なくなった。
力も抜け、お風呂に滑り、

お風呂の底からゆらゆら揺れる水面の光を見ていた。

「これは大変な事になってしまった…。
子供はお湯を抜く事なんて思いつかないだろう。
寧ろ私の息が続かない。
さっきまで子供達と笑って話していたのに、
次の瞬間には死と隣り合わせなんだな。」

と、冷静に考えた。

息がもうもたない

そう思った時、ギリギリで痺れがなくなってくれた。
そして、水面上へ行く事が出来た。

子供達もびっくりして、お風呂から出ていた。
びっくりさせてごめん
と、ぎゅっと抱きしめた。
自分より子供だった。

よっぽど疲れているんだろう

ただそう思った。
まさか病気だなんて全く考えもしていなかった。
食生活を気を付けている自分がなるはずもない、
と思った。

病気なんて…
不幸せなんて…
自分にはない事

そんな事があっても、自分の優先順位は最下位で、
自分を気遣う事などなかった。


なんとか息子が幼稚園を卒業し、ほっとした。
これから、楽に生きれる!とさえ思った。
息子が卒園祝いに幼稚園で頂いた富士サファリパークの割引チケットをくれた。
日程を確認すると一日だけ示し合わせた様に、
空いている日があった。

朝5時からお弁当を作り、
皆を起こして向かった。

そこで私は倒れた。

倒れる時、薄れゆく意識の中で「死」が明確になった。
そして、人生を振り返った。
夢だった留学出来て、結婚し、可愛い子供達に恵まれて…
私の人生これで良かった。
幸せだったんだ。

そう、皆が羨むくらい幸せだったんだ。
よかった。
もう感情に振り回される事はない。
…やっとこれで休める。

本気でそう思った。


ここまで読んでくれてありがとうございます。
そして、応援メッセージ下さった方々、
本当にありがとうございます。
一つ一つ読ませて頂いて、心に寄り添って頂き、
涙が溢れました。
本当に、本当に、ありがとうございます。
時間がかかるかもしれませんが、
必ずお礼の返信をさせて下さいね!