子供が夏休みに入った頃、私と子供達だけで実家へ帰った。
夫の世話をせず、ご飯も作って貰え、
こんなに甘えていいのか、と思うくらいだった。

帰りは主人が名古屋から私の実家へ迎えに来てくれると言った。
片道二時間半以上かかる。
私は主人が来たら、あれこれしたいと親と話していたので、
来て欲しい時間を伝えた。

当日、主人は時間になってもこなかった。
連絡もなく、連絡しても返信がない。
結局主人が来たのは、
もう電車に乗らなければいけない時間だった。
と言っても謝りもせず、この後予定があるから早く帰ろうと言う。

私は親が出してくれた車に揺られながら、
本当は皆で行く予定だったコスモス畑の前を通った。
すごく複雑な気持ちになった。

忙しかったんだから仕方ないよね。

そう思う様にした。
その後、名古屋の家に着くなり、
子供達がわんわん泣く中、
用事があるから、と去っていった。
冷蔵庫もすっからかんで、
疲れた体で子供達を連れて買い物へ行った。
お米もなくなっており、頼んでいたのに買われておらず、
ベビーカーにお米を乗せて、赤ちゃんの息子を抱っこ紐に入れ、
娘をベビーカーから離れない様にしっかり持つようにお願いして、
歩かせた。
買い物袋はベビーカーの後ろにかけた。

途中で、ゆっくり押し車を押したおばあさんが歩いてきた。
そして私を見るなり、

「大変ねー」


と、言った。
私って大変なんだ。おばあさんが思うくらい。
やっと気が付いた。
でも一度母に軽く話した時に、
「お父さんと比べたらましやろ?」と言われ、


そうだ、家に寄り付かず不倫までした父よりはましだ


と思う様にした。
無理に押し込めれば押し込める程、
私の心はどんどんすり減っていった。

でも、自分は自分より格上の人と結婚したから…
これくらい耐えて当たり前なんだ。。。

ずっとそう思っていた。

私が生まれた場所は、人口が6000人ほどしかいない。
何かあれば、すぐに皆に知れる事になる。

私の母は美人でモデルの様な人で、皆に羨ましがられた。
家も祖父と父が建てたので、蔵まである。
大きな家に美人な妻。
皆はうちの家を羨ましがった。
私は自分の家がしんどかった。
皆は何も知らないのに、人を勝手に判断する…
それなら変わって欲しい、とさえ思った。

何故なら父の姉達が母をいじめ、
祖父母もこんな強烈な人達を見た事ないと思う様な人達。
顔は鬼瓦の様な人で、上の兄弟と5歳ほど離れた私に、
「おまけの子。」
と、言う様な人達だった。

小学生の頃、祖父は癌になった。
しかし、入院する事を姉達が許さなかった為、
母は一人で看病し続けた。
祖父がなくなった時、祖母の認知症が始まった。
朝から晩まで叫び、警察に電話し、うちに平和などなかった。
お金に執着した人だったので、常にお金の事を聞いてきた。
何度も、何度も、、、、
気性も荒く、一度切れると冷めるまでどうしようもない人だった。

ある時祖母が切れた時、
母は姉と私に暫く車で出かけようと言った。
すると、祖母は追いかけてきて、
車の前に寝転んだ。
そして、叫んだ。

「行くんやったらわしをひいてから行け!」

小学生ながらにどうしてうちは他の家とは違いうのだろうと思った。

父は遊びで帰ってこず、
夏休みにどこかへ連れて行ってくれる時も愛人みたいな人と三人で行く。
母が大変な時はいつもいないし、いても何もしない。

私が高校生の頃、祖母は末期癌になった。
それでも入院する事を姉達は許してくれなかった。
三時間おきに床ずれ防止の為に寝がえりを打たせる母。

それでも母は、どんな辛い事があっても、
私と兄弟にはいつも笑顔だった。

中学生の時に父親を不慮の事故で亡くした母。
中学生にして、弟二人の面倒を見た。
祖母(母の母)は、自由な人なので、
未亡人会で子供達をおいて旅行に行ってしまう様な人だった。

どうして母はこんなに苦労しなければいけないのだろう…
ある時母に言った。

「お母さん、お父さんと離婚した方がいいよ。
だってお母さん大変でしょう?」

すると母は言った。

「大丈夫だよ。
あなたやお姉ちゃん、お兄ちゃんに出会えた事が幸せだから。
あんなのでもお父さんなんだよ。
実のお父さんはお父さんしかいない。
父親のいない子供は可哀想だ。
だからお母さんは今で幸せだよ。」

私は違うと思った。
お母さんは無理していると。
でも思った。

結婚とは母親が我慢すれば内情はぐちゃぐちゃでも
「家族」としては一まとまりになれる
そう思う様になった。

私は姉、兄よりも勉強が出来たので、
母は喜んだ。

「あなたはお母さんの希望の星!」

といつも言ってくれるのが嬉しかった。
いつも母に抱き着いて、
兄弟よりたっぷり甘えて愛情を貰っていたと思う。

母を喜ばせるのは自分の役目だと思った。
今まで苦労した母を喜ばせたい。
ただただそう思った。
その為には人より勉強や運動が出来て、
人よりいい結婚をしなければと思った。

そうしているうちに、自分の悩みや辛い事を母を悲しませなくない一心で言えなくなってしまった。
高校生の時、交換留学生になった。
ホームスティ先でホストファミリーとトラブルがあったのだが、
誰にも言えなかった。
しかし、周りの人が気づいてくれ、手助けをしてくれた。
母に電話出来たのは、日本をたってから半年以上した後だった。
久しぶりに聞く母の声で、ただただ泣いてしまった。

大学生になって、社会人になって、
自分が思うように成績がとれなかったり、
いい会社に入れなかった。
どんどん自分がダメな存在な様な気がしてきた。

大学時代から付き合っている主人。
何度も何度も付き合う事を拒否したのだが、
最後は根負けした。
こんなに好きでいてくれるのだったら、
大事にしてくれるだろう。
そう思った。
主人のお父さんもお母さんも立派な職業についていて、
幸せな明るい家庭だった。

私は、「幸せな家庭を築く」事を心から望んでいた。
暗い所のない主人なら毎日明るく過ごせると思った。
その反面、主人は人の裏を読めない人だった。
そこに違和感を感じて喧嘩をした事もあったが、
素直な人だと思った。
いつも明るい人だったので、母は主人との結婚を喜んだ。

主人は大手商社に勤めており、
私の友達も、生まれ故郷でも羨ましがられた。
これで幸せになれた。
そう、思えた。
しかし、実際の結婚生活では、辛いと思う様な事が起きた。
その度に、

「自分は幸せだから。
私が思い違いをしている。
結婚して、育児をするという事は大変な事。

誰もがそうだから…。
誰もが通る所、通る思い。
私は根性が足りないから不満に思っているだけ。
今耐えれば家族は上手くいく。」


そう思い込んでいた。
過呼吸になっても、痺れがきても、
一人で苦しくて泣きながら家事や育児をしていても、
それは一般的にある事だから、と思った。


「…大変、でも私は幸せだから大丈夫。」

そう思い込む事で必死だった。

苦しい事があっても、母には言えなかった。
言ってはいけないとさえ思った。
私の幸せは、母親の幸せに繋がっているのだから。
いい会社に勤める人と結婚して、可愛い子供二人に恵まれて、
幸せじゃないはずない。
幸せじゃないという自分の心がすさんでいるんだ。
とさえ、思った。

押し込めた心の上にのった小さなプライド。
それが私を蝕んでいった。
 

続く…

ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
読んで下さった方が、素敵な一日を過ごせる様願っております。