祖母が亡くなって、18年が経った。
私は正直言うと、祖母の事がずっと嫌いだった。
昔の写真を見返してもよく分かる。
2歳の私が三輪車に乗っている。
その横には、祖母が私の目線に合わせて膝を曲げ、話しかけているのだが、
私は顔を反対側に向け、目を合わせるのも嫌がっているのが分かる写真だった。

その写真を大人になって見た時、
祖母の事がどれだけ嫌いだったんだろう、
でも仕方ないよな、と思った。

祖母は昔から気が強く、
姉と兄と5,6年離れて生まれた私に、
「お前はたまたま生まれた子。」
と、平気で言ってしまう人だった。

私の事は、「ちび、ガキ」と呼び、
理不尽な事で怒る度に、
「このガキ!ふん!」
と、鬼瓦の形相で大声で叫んだ。
沸点はどこまでも低く、いつも関わる事を怯えた。

「おばあちゃん」という可愛い響きが全く似合わない祖母。
うちの家族の中では、いつからか「おばん」と呼んでいた。

祖父が亡くなり、数ヵ月して祖母の異変に母が気付いた。
病院へ連れて行くと、認知症だった。
認知症は日々重くなった。
お金に対する執着が強くなり、
日々、誰かがお金を盗ったと、警察に電話する事もあった。
真夜中に何度も起こされた事もあった。

そのうちに、食事をした事も忘れた。
食べた事を伝えても、
「わしに食べささないつもりか!このやろう!」
と、凄い剣幕で怒った。

怒ると何をするか分からないが、
認知症が故、暫くするところっと忘れてしまう。
ある時沸点が頂点に達したので、
母は私と姉を車に乗せて、暫く出かけようと言った。
慌てて用意をして車に乗り込んだ。
そして、車を出発させた時、祖母が走ってきて、
車の前で寝転がった。

「行くんやったら、わしを殺してからいけ!」

怖かった。
どんなドラマより、家庭が怖かった。
小学生の私の心は、どんどん冷めていった。
自分の家族が暗くて、大好きな母が毎日耐えている事。
父も家に帰ってこなかった。
父の姉達は、いつも家に来ては母を責め立てた。

小学生ながらに、離婚する事をすすめた。
しかし、母は
「あんな父親でも、あんな祖母でも、いない方が子供にとっては悲しい事。」
と、言った。
私には分からなかった、理解が出来なかった。

そのうち、認知症がますます進行した。

トイレも忘れる様になった。
祖母が入った後、知らずにお風呂に入った時、
うんちまみれのお風呂に浸かってしまった事もある。
泣きたくなった。

認知症だったからか、身体が丈夫だったからか祖母はどこまでも歩いていける人だった。
老人センターに毎日片道1時間歩いていく人だったのだ。
いくら母が止めても、勝手に出かけてしまう。
でも何故かその道のりで迷う事は一度もなかったのだ。

ある日、中学生の私が友達と下校中に、座って話していた。
そこに祖母が現れたのだ。
私は、
「祖母が私に気が付いたらどうしよう。
こんな祖母がいるなんて分かったら、恥ずかしい…」
とさえ思った。
しかし、祖母は私には全く気が付かなかった。
ほっとしたと同時に、ちょっとショックだった。
毎日顔を合わせているのに、病気とは恐ろしいと思った。

外ではとてもニコニコしている祖母。
そして何度も「今日は何日?」と同じ質問をしている。
「もういいよ、もうやめて…」
そう思った。
そして、すごくお金にせこい人だったのに、
別れ際に私達にお金をくれて、にこやかに去っていった。


その後、友達は、
「あのボケ老人」
と、何度も何度も笑いながら言った。
私は、もう消えたくなった。
「病気なんだよ、仕方ないんだよ。」
どうしようもない悲しみと、病気に対する怒りがわいてきた。

私が高校生になった時に、祖母の末期癌が分かった。
どこまでも歩いていけた身体は、
日を追うごとにやせ細り、小麦色の肌は真っ白になっていった。
父の姉達が病院へ入院させる事に大反対した為、
母は三時間毎に起きて、床ずれを起こさない様に身体の向きを変えてあげた。

母はもうボロボロだった。
しかし、「痛い、痛い」という祖母に寄り添い、
あんなに罵られ、辛い思いをさせられた祖母に、
「痛いね、辛いね。」と身体をさすりあげ続けていた。
私には全く理解出来なかった。

「お世話は正直すごく大変。
でもね、祖母がいなければ、お兄ちゃん、お姉ちゃん、そして春と出会う事が出来なかった。
そう思ったら感謝の気持ちしかないのよね。
不思議ね。」

母はそう言って笑った。

もう立ち上がれる状態でないのに、
認知症の為、立ち上がって歩いていた時は、怖くて怖くて震え上がった。
しかし、以前とは全く違う表情だった祖母。
以前の鬼瓦の様な顔つきは消え失せ、浄化された様な顔つきになっていた。
私は何故か祖母はもうすぐ死ぬのだと思った。

そんな状態なのに、父のお姉さんが祖母を自分の家に泊まらせると言って、
勝手に連れ出したのだ。
その次の日の朝、祖母はもう目を覚まさなかった。

私は高校の5泊6日の海外研修へ出かけていた。
その帰国日だった。
いつもなら迎えに来てくれるのは母だったのだが、
その日は兄だった。
「…おかしいな」
と思った。
そして、兄の様子がいつもと違う事に気が付いた。
「おばんが死んだ。」
そう言っておもむろに車を止めた。
一人自動販売機に立ち寄って、ゆっくりゆっくり小さな缶コーヒーを飲んでいた。

母は、「祖母はあなたの事待っていたのよ。」
と言った。
正直私は待っていて欲しくなかった。
小さい頃から怖くて、辛くて、なんでうちの家族はこうなんだろう、
とずっと思ってきた。
友達のおばあちゃんを見る度に、皆が普通でいる事が羨ましかった。
早くいなくなって、母を救って!と神様にお願いもした。


しかし実際に亡くなった時、心にぽっかり穴が開いた。

その穴の意味が分からなかった。
嫌い、憎い、という気持ちが、理解する事を拒否していた。
ただ母を、家族を苦しめた祖母がいなくなった、
それで、これから楽に生きれると思ったのに、
心の中にモヤモヤが渦巻いた。
私の中に整理出来ない気持ちが残った。

祖母がなくなって数ヵ月、母は髪の毛が抜けていき、
高熱が出続け、寝込んだ。
祖父の癌も自宅で看病し、祖母を看取るまで10年経っていた。

女優の様に美しい自慢の母。
その裏で、こんな生活を送っていると誰も思っていなかっただろう。

母は長女で歳の離れた弟が二人いる。
母の父は、母が中学生の時に不慮の事故でなくなってしまった。
母の母、つまりおばあちゃんは自由な人で、
子供達をほっておいて旅行に行ってしまう様な人だったので、
母は中学生の時から母親代わりとして、弟達の面倒をみてきた。

母の美しさは、外面ではなく、内面だと心から思った。
常にどんな人にでも心に寄り添って生きており、
誰を恨む事もなく、自分の境遇に不幸と感じる事なく、
自分が持っている幸せを大切に、大切に育ててきたのだ。

私はずっと祖母が憎かった。
思い出すのも嫌だった。
でも、常に母は明るく、どんなに罵倒してきた人にも優しく、
心情を推し量り寄り添った。
それがどんなにその人の力になっただろう。

自分が病気になって思う。
祖母も辛かったのだと。
祖母の辛かった事など、見ない様にしてきたのだ。
自分が苦しめられた、という思い込みが、
彼女は心がなかったとさえ思いこませていた。

祖父に殴られても、離婚をしなかった祖母。
戦争を経験した為に、食べるものがなくなる事を恐れ、
お金に執着してしまった祖母。
本当は優しくしたかったから、色んなものを内職して作ってくれた祖母。

あぁ、怒りや恨みという感情が、私の人を見る目も曇らせていたのだと、
初めて分かった。
祖母が私に直接何かをした、という事はないのだ。
ただ、母を苦しめている、という勝手な被害妄想が祖母に対する感情を狂わせていたのだ。

母がある時言った。

「確かにあの時は、大変だった。
でもね、苦しくはなかったよ。
だってね、子供達の成長が、あなたの成長がとても嬉しかった。
子供達には十分に構ってあげれなかったのが心残りだけど、
今でもずっと皆が元気でいる事が、何よりの幸せなの。
離散してしまったら、お母さんは後悔したと思う。
逃げるのは簡単だったけど、その先には今以上の幸せはなかったと思うよ。」

母は苦しんでいなかった、自分の人生で良かったと思っていた。
その事を知れた時、長年の心を圧迫してきた10年間がすーっとなくなったのだ。

これからは祖母に感謝して生きる事が出来る、
もう過去に縛られずに生きれるんだ!
心の靄が晴れていった瞬間だった。

私は母が不幸だと思っていた。
母は自分が犠牲になる事で、子供達の幸せを願っていると、
勝手に思い込んでいたのだ。
しかし、実際は全く違ったのだ。
母は、母の人生で幸せだったのだ。
その事に気が付いてから、
自分が母より幸せになってはダメだと思い込んでいた事に気が付いた。
やっと自分に「幸せになっていいんだよ。」と許可出来る様になったのだ。

ありがとう。
ありがとう。

全ての出来事が、心を満たし、
一つ一つの出来事に感謝していった。
押し寄せてきては、ありがとうと言って抱きしめる。
すると、いつの間にかもう押し寄せるものが、なくなっていたのだ。

私の心に山積みになり放置されていた憎しみや悲しみが、
全て感謝に変わった時だった。

ここまで読んでくれてありがとう♡
読んで下さった方が素敵な一日を過ごせる様、願っております♡