内原 | なるようになるさ

なるようになるさ

発達障害、100万人に2~4人の希少病デスモイド腫瘍、約5年に渡る二人目不妊治療(tese-ICSI)を経て出産。

旦那は脊髄損傷、車椅子。
長男くうたは超ユニーク小学生。
次男はよく泣きよく寝る令和ベビー。
今日も我が家は崖っぷち!

内原訓練所跡地に行きました。



姉の住むところとも近いし

泊まり掛けでと思っていたら

「日帰りでいけるやろ?行くなら明日行くぞ」

そんなところ興味なしの旦那が

行くと言ってるうちに行かないと

行けなくなるから

えー!と思いながら日帰りで行きました 笑


満蒙開拓青少年義勇軍とは

開拓者として満州に送られた16~19才の

青少年で

ロシアが満州を攻めてきた際に

関東軍と一緒に満州を守る少年兵としての

役割もありましたが

実際は義勇軍も終戦ごろには応召され、

開拓地に残ったのは

老人・女子どもだけだったよう。

将来は広大な開拓地を貰えると騙されて

満州へ渡り、

過酷な訓練を経て亡くなったもの、

応召されて関東軍で戦死したもの、

祖父のようにシベリアに送られたもの、

それでも満州での暮らしは

戦時中ということを

忘れてしまうほどの生活だったそうで

祖父は晩年、満州へ帰りたいと

漏らしていたとか。



この内原訓練所は満州に渡るまでの数ヶ月間、

満州での作物の作り方や

生活のしかた、柔道やら作業やら

何やらを学ぶ場所で

数ヶ月入所ののち、

満州の訓練所に数年入所し

その後各開拓地に送られたようです。


昭和17年2月、

村を揚げて日の丸で見送られ

誇らしげに微笑む母に見送られ

神戸駅を経った祖父。



日の丸で見送られ、

胸を張って誇らしく村を出たのに

シベリアからの帰国を喜ぶものはなく、

村中にから「アカだ」と後ろ指を指されて

それでも閉鎖的で封建的な町を

出ることは許されず

三男なのに

家を継がなければならなかった人生。




その祖父がいつ満州に渡り、

どこの現地訓練所に入ったかわからず

内原に行けばしっぽが掴めるかな?と。



資料館の方も一緒に

資料を探してくださったけど

祖父の代の資料はなく

名簿に祖父を見つけることはできなかった。



けど、昭和17年2月入所の兵庫県出身者が

いつどの隊でどの現地訓練所に送られたか

という資料は見つかり

たぶんそれで間違いない。



そして開拓団推進委員だった曾祖父も

内原訓練所に入所していたと知っていましたが

どうやら義勇軍の訓練所と

開拓団の訓練所とは別の場所にあったようだと

わかりました。





訓練所跡地は退屈という人々が

近くにでかい埴輪があるとの情報を

見つけたので

くれふしの埴輪に寄って帰りました


でかい…

くうたは泥だらけになりながら

埴輪にのぼりました

(階段が雨で汚れてた)



くうたに古墳が昔の人のお墓だと教えると

古墳に並ぶ土器、

片っ端から拝んでまわってました(^_^;)

なんか違う 笑



いや、しかし日帰りはキツかった!

片道5時間日帰りは

30過ぎるとキツイ!!