私は私をゆくだけ | 子育てしながら◆公認会計士試験◆

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*・*・*小学生娘の母*公認会計士試験に向け学習中*・*・*

夫とそして自分の母と、たくさん話をしました。

 

いろいろ方向性が見えてきているので、勉強再開です。

 

ただ夫としては、私がこうして開けっぴろげに自分のことをブログに書いていることは心配しているようです。

 

そもそも、こういう私の特殊事情を言ってわかってくれる人はいても、一方で詮索したり否定してくる人もいるだろうと。

 

私の場合、普通に会話していても「やっぱ頭悪いとか物覚えが悪いとか感じないから普通は気づかないし、俺も気づかないから、○○ちゃん(わたし)のことを疑っている人もいるだろうし、そうするとダメージを受けるのは〇〇ちゃんだよ」と。

 

 

これはずっと私の中の命題なんです。

 

今の私は、短答すらも前に進めていなくて、講師の先生方からは呆れられている空気も感じているわけで、そこを「私は暗記がうまくできないんです」って言っても、たぶん伝わりません。

 

それに、自分のこういう欠けているところをブログに書いていますが、基本的には何のメリットもありません。

 

こうやって書くことは言い訳にしか聞こえないものです。

 

 

それに、どんなに自分の個人的な事情を話したって、目の前にはペーパー試験で平等にふるいにかけられる事実のみがあるわけで、そこには私の個人的な事情なんて微塵も関係ないのです。

 

人より倍の倍も勉強が必要だと言われる試験で、暗記に苦労している人間が勉強しよう、受験しようという話が根本的にずれていると思うが普通の人の考えだと思うんです。

 

以前、とある講師の先生から「他の資格だってある」と指摘されたことがあります。

 

至極真っ当な指摘ですが、しかし私は何か資格がほしくてこの勉強を始めたのではなく、公認会計士というバッジが必要だという根源的な動機をもっているから勉強を始めたのであり、私個人には、他の資格への移行では意味がなくなってしまうのです。

 

そうはいっても他人からすれば、不可能なことに無意味にチャレンジしているようにしか見えないのだろうなと思います。

 

 

でも、何度も書きましたが、この数年、できないことができるようになってきました。

 

ただ、増えていったところで、それははそれだけです。

 

それが本来必要なレベルに回復していなければ、ひたすら延々と勉強を続けるだけになるのだから、そこは自分で自分のことを何度も客観的に評価し続けなければなりません。

 

自分を評価し続けることは、とても難しいことです。

 

 

最初の頃は、自分の出来なさの深刻さに目を背けて、ただ勉強をできることの悦に入っていましたが、徐々に現実をまざまざと見るにつけ、これは容易なことではないと思うようになりました。

 

一時期…3年ほど前は、勉強から離れていってしまった時期もあり、その時には「もうこのまま終わりにしてもいいかな」とも思ったんです。

 

でもその時、へとへとで「もういいや」と思った私の心を、娘がこじ開けてくれたんですよね。

 

「でもまた継続を決めるのはかなり私の我儘だよなぁ」と何度も逡巡したんですけれど、でも一方で、自分の心にまた火が灯ってくれたことはかけがいないことでした。

 

40過ぎてくると、良い意味でも悪い意味でも保守的になりがちで、自分に挑戦するとか、勉強を続けるだとか、そういう強い気持ちを持ち続けることは、かなり難しくなってきました。

 

だから私の勉強へのモチベーションが少しずつ消えていくのを、少し寂しく見守っていたんですが、それが、ぱぁっと火が戻るのを実感したんです。

 

さらに、私と同じ歳の同じ保育園のママが、「私たちがこの歳になって勉強しようって思えることがまずすごいんだから続けな!」って言ってこられたんです。

 

すごく、この意味がわかったんです。

 

で、いろんなことが重なって、もう少しやろうって。

 

ただ、一つはっきりしていることはあります。

 

今もこれからも、自分は「やれる」「できる」「なんとかしたい」と思っても、それでも「やっぱりダメだった」と思う時がくるかもしれないこと、そうなった時にはきっちり覚悟して腹を括ろうと決めました。

 

他人から見れば、とっくにレッド色のフラッグが立っているようにしか見えないと思うんですが、私が私をきちんと冷静に見て、自分の能力に限界があればそこは引き際だと見定めなければなりません。

 

正直、短答を落ちるたびに、これは「レッドフラグ」なのではないかと、何度も自分の中で問い続けていました。

 

「でもまだ歩き続けているし進んでいる」ことを自分は知っているので、何度も、よし続けよう!と決めてきました。

 

 

自分のことを一番知らないのは自分自身ですし、でも、自分のことをわかっているのは自分だけということもあります。

 

 

私は20代のころから、PTSDでいろいろ大変な思いを抱えてきましたが、それをほとんど表に出さずにきました。

 

なぜ隠してきたかというと、他人の評価は時に無知ゆえの凶器になって飛んでくることがあるからです。

 

誰かにこの苦しみを知ってほしい分かってほしいと強く望んでいた時期も確かにありましたが、そう思って自分を告白しても、返ってくる言葉はたいてい厳しいものでした。

 

そうやっていくうちに、自分の現実を誰かに知ってもらいたいとか、誰かと分かち合いたいとか、共感してもらえるだけでも救われるとか、あがいて結局、そういうのはドラマでしか起きえないんだなぁと悲しくなって泣きじゃくったことを覚えています。

 

不眠症の苦痛は外には見えないですし、たとえば離人症で苦しんでいても見えないですし、私が痛みを感じるトラウマの原体験も誰とも分かち合えない孤独な痛みです。

 

それは言いようのない孤独なんですが・・・

 

でも、私という存在は私のことを知っていてくれて、その私自身がしっかりと自分の内側を見てあげられている限り、自分は「大丈夫だ」と思えるようになりました。

 

 

自分が進むか止まるかは、自分で決めるもの。

 

 

客観的に判断することは非常に困難なことですが、できるだけ冷静に、そして真逆に自分が望むままに続けたいと思うのならばその声にも従いつつ、自らの決断をしようと思っています。

 

 

 

で結局なにが言いたかったのかというと。

 

書きたいことはあって書いたんだけど、でも読み返したら内容がいろいろ波紋を呼びそうなので消しました。

 

結論だけを書くと。

 

とにかく私は誰から何かを言われようと、勉強を続けるし、やりきるだけだという強い意志を固めています。

 

 

あと反省は、計算で検算地獄にハマるとか、解ける問題がふわふわして電卓も空回りするとか、これは実地訓練で治していかないといけないと思っています。

 

夫から言われたのは「成功体験を積むといい」ということで、答練は家でやるのではなく校舎でライブで受けるのはもちろん、他にもできることを探してみようと思います。

 

やれること、やることは決まっているので、動きます。

 

 

 

それから、ここでの更新頻度はやっぱり少なめキープに。

 

ゼロではないですが、一歩一歩、踏みしめながら書きます。

 

またしばらく記事が開くかもしれませんが、気が向いた時にでも読みにきてください。