それは二ヶ月ほど前のできごとだった。


社長が経営するバーのひとつが六本木にある。
七子と同じ年で正社員のユリと二人で帰ろうとした時、

偶然退社しようとしていた社長が誘ってくれたのでついて行った。


車から七子たちをおろした社長は、

「もう一店舗にも顔を出してから行く」と言って走り去ってしまった。


そのバーは地下にあり、狭い階段を下ると重いガラスの扉に金の取っ手が付いていた。

入口からして豪華なものが好きな社長らしい作りだ。


重たいドアを勇気をふりしぼって押し開いたのは七子だった。


「いらっしゃいませ」


短髪をツンツンに立てた男の子が言った。

歳は同じくらいか少し下に見える。マスターだろうか。


カウンター席は誰もいない。
奥の背の高いテーブルの席におじさんが一人座っているのが見えた。


ツンツン頭はグラスを拭く手を止め、

「こちらへどうぞ」とカウンターへ促した。


ユリはあわてて言葉を発した。


「あ、すいません私たち山本社長の……」


「はい、聞いてますよ。どうぞおかけ下さい」


ユリの顔が一瞬ポッと赤くなったのを、私は見逃さなかった。

暗い店内でもよく分かる。

確かに幼い顔立ちに似合わず、落ち着いた対応のできる子のようだ。



テーブル席のスーツの男性が、突然言った。


「おねーちゃんたち、こっちにおいでよ」


狭い店内に響くで偉そうに言った男性は、おなかがでっぷりと出た中年だった。
そのオッサンは、七子が店に入るなり全身をじろじろと舐め回すように見ていた。


そして七子に言い寄る。


「ねぇ、君すごいかわいいね。

 その顔にその大きいオッパイは萌えちゃうなぁ。お名前は?」


七子はその場で凍りつき……


その瞬間――


パンッ


大きな音がした。


ユリがそのオッサンに 
平手打ちを食らわせていたのだ。





七子の彼は都市銀行の副支店長。


どこに行ってもそのことを自慢気にひけらかす彼のことが嫌でたまらない。


七子よりも20歳年上の43歳。


バツ1で……つまり一度離婚しており、一人で大きな家に住んでいる、

と毎日聞かされているが、七子は彼の家を訪れたことはない。


お金があるようには見せかけて虚勢を張っているが、

実際は自分で言うほど稼いでいないようである。


そこから養育費やら何やら毎月出て行くのだから生活も苦しくなるのも想像がつくものだが、
「俺は大手都市銀行に勤めてて偉いんだよ! 金なら気にしなくていいから」

が口癖の彼を、情けないと思うか頼りがいがあると思うかはとらえ方によるだろう。


七子は「大手都市銀行」を強調する彼を目のあたりにするたびに、

別れのきっかけを考えるようになっていた。


七子にはいつも「いくら使っても構わない」と豪語しているが、

土壇場でケチるところにも嫌気がさしていた。


おごってもらうのが当たり前になっている今、文句は言えた筋ではないのは分かっていた。

それでも彼の金銭への執着を、「職業病」の一言では片付けられないものであると

七子はこの時すでに悟っていた。


――本当は、今すぐにでも別れたい…。


愛もない

情もない


でも
今の私には
どうしたらいいのかわからない――





「河原井さん、社長室にお茶二つ!」


ガチャン!

プー…プー…


『え~っ! またぁ??』


社長の内線電話ガチャ切りにももう慣れた。


――うぅ。やだよぉ。
だってもし高内さん、だったら…。
どんな顔して会えばいいかわかんないもん。



あれから――七子は高内の名刺をデスクの右側一番上の引き出しに入れ、

いつでも見ることができるようにしていた。


派遣社員で内勤の七子が名刺をもらうなど初めてのことだった。



それだけではなく……長い間最悪だと思っていた人。



その人の、一瞬ふっとゆるんだ瞳が

心から、離れない。



――電話載ってるよ。

そう言ってたけど……


確かに名刺には、会社の番号と携帯電話の番号が載っている。


――電話、しろってこと?


いくら考えても、あれだけの会話ではハテナマークは増えるばかりだ。




「河さん、お茶は……?」


ボーっと考え込んでいた七子に、先週入ったばかりの派遣仲間・吉川美香が声をかける。


『そうだった! ありがとう吉川ちゃ~ん』



お茶をこぼさないよう、そーっと廊下を歩く。


――もし高内さんだったら、どうしよう……。

なんて言ったらいいんだろう。

どんな顔したらいいんだろう。


社長室のドアをノックする時、七子の心臓の高鳴りはピークに達していた。



『失礼します』


机の上へ丁寧にお茶を置く。

「あ、どうもねー」



にっこり微笑んで会釈してくれたのは、白髪の、見たことのないお客だった。


――良かった。高内さんじゃなかった……。



ホッとして小さく息を吐き、にこっと会釈を返した。
社長とお客様はまた商談に入る。


――こんな真っ昼間に高内さんが来るはずないか…。


ホッとしたのに、どこかさみしい気持ちになる。




あれ……?


どうしたの、私。


この気持ちは、なに?