伊藤博文(1841~1909)
アジアの未来を阻んできたのは
一部特権階級の権力欲である
真に民衆の力が台頭することを恐れるのは
アジアの結集を恐れる西洋の諸国も同じ
日本を含めアジアの民衆は愚かではなく
21世紀は真の民衆の文化交流が急速に広がる
それは時間の問題だ
何々人。。ではない。。真の平等な社会世界観
中国韓国日本
国は違えども同胞を憂う心は一つ
生命の尊さ
汗する努力の大切さ
民衆の力を知恵を結集して
真の民衆の連帯を
歴史に学び
過ちをくりかえさない
しょせん敵はひとりひとりの心のなかの
悪魔の声
自分だけ。。。自分さえ。。
以下引用
http://homepage1.nifty.com/history/history/dainihonteikoku.htm
東洋史
より
伊藤博文(1841~1909)(在任1885~1888)(在任1892~1896)(在任1898)(立憲政友会1900~1901)
明治政府の参議。初代内閣総理大臣。
長州藩の吉田松陰に学び尊王攘夷志士となる。
イギリスに留学し、帰国後長州藩の外交を担う。
維新後は岩倉・大久保・木戸と共に欧米を歴訪。
帰国後、征韓論を唱える西郷・江藤・板垣を政府から排除。
かわって伊藤が参議となる。
1881年、大隈重信を政権から追い実権を握る。
立憲君主国の制度整備に尽力し、自ら初代内閣総理大臣となる。
政党である自由党と協調して政治を進め、日清戦争を乗り切るが、政党勢力に敗れ退陣。大隈重信&板垣退助の憲政党に政権を譲った。
憲政党の板垣が引退し、立憲政友会が結成されると伊藤はその総裁となり、こんどは政党内閣として総理となる。
しかし三年後引退。政府の穏健派重鎮として大韓帝国に派遣される。
ロシア大臣との会談のためハルビン駅にいたところを何者かによって暗殺される。
朝鮮人の異常者(安重根)による犯行だった。韓国併合反対派だった伊藤が殺された事で、併合が進む事となった。
伊藤博文公は世界周知の如く日本の最も偉大かつ、有名な政治家である。
彼の韓国赴任は、たいへんな自己犠牲であった。
伊藤公が、その韓国改善のプランを打ち明けたとき、私の心は躍った。
そこには 改革、公正、斡旋があった。
(李朝朝鮮)が犯したあらゆる誤りがそこでは救済されるはずであった。
「私は、自分が韓国国民と日本国民との間に立って、両者の間に正義がおこなわれるようにすべき立場に立っていると思う」
と公はそう言明したのである。
カナダ人ジャーナリスト フレデリック・アーサー・マッケンジー
1906年 ロンドン・ディリーメール紙
韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。
高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手をとられて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において、三年間に二倍の進歩を遂げた。
宣教師 ラッド博士
私の見るところをもってすれば、伊藤侯の統治は最大なる賞賛に値するべきものであり、大変満足しております。
韓国国民は今やようやく、彼をもって自分達の友人であると知って、これを事実の上に現し始めました。
過去三年の間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして統監政治の最も熱心な支持者であることを告白せしめます。
私は伊藤侯の必ず成功 すべきことを信じて疑わないものであり、また、すべての宣教師及びその他の韓国における文明開発の義務を知る者は、等しく伊藤侯の統治を支持しなければならないと思います。
宣教師 ハリス博士
「伊藤博文公暗殺」に対するドイツ人の論調
<韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。
何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。
日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。
陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。
その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。
当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。
公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。>
ドイツ人 エルウィン・ベルツ博士
「伊藤公の追懐」
「伊藤公暗殺」に対するロシア人の論調
<思えば思うほど情けない限りである。
最後の大戦争(日露戦争)以前に伊藤公爵が言われたことを、もし、ロシアが聞いていたら、あの悲惨な戦争も、ロシアの敗戦という不名誉もなかったのである。
伊藤公爵のハルピン来訪目的は、わが大蔵大臣との外交上の空しい儀礼的なものでなかったことは、 誰もが知っていた。
伊藤公は「ロシアは満州から去れ」などという、一点張りの主張をする人ではない。
尊敬すべき老大偉人の逝去は、日本の損失ばかりでなく、わがロシアの損失であり、韓国が大損失をこうむることは必至である。>
東清鉄道長官 ホルワット少将
「ハルピン・ウェストニツク紙」
「伊藤公暗殺」に対する韓国皇帝の論調
伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。
公はわが国に忠実正義をもって望み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。
日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。
実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事の理事を解さない流浪人であろう。
十月二十七日
太皇帝(高宗)
伊藤を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。
その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない。
十月二十八日
太皇帝(高宗)
「伊藤公暗殺」に対してのイギリス人の論調
公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断派ではなく、平和的であったことはむしろ、グラッドストーンに類するところである。
財政の知識が豊富であったことはビールにも比すべく、策略を行うに機敏かつ大胆であったことは、ビーコンスフィールドに似ている。
公はすべての大政治家の特徴を抜粋して一身に集めた観がある。
殊に公は驚くべき先見の明を有し/要するに四十余年の永きにわたって終始一貫、国家の指導者たる地位を占めたのは、実に千古の偉観というべきである。
「伊藤公の性格」
ブリンクリー主筆
イギリス紙「ジャパーン・メール」
安重根の伊藤博文公の暗殺に驚愕し、謝罪・追悼の意を表した官民多くの韓国人!
(安重根の収監されている監獄に面会する者一人もなし!)
衝撃が走ったのは、韓国の王室ばかりではありません。
十一月四日の国葬(日比谷)には、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列しました。
同じ日にソウルの奨忠壇では、李完用首相の主催で、官民一万人が参列して追悼会がも催され、追悼会は全国各地に及びました。
一ヵ月後の十一月二十六日には漢城府民会、その翌日は大韓商務局総会、十二月十三日には永道寺がそれぞれ主催して、追悼式が持たれました。
当時、旅順監獄に繋がれていた安重根の所に面会に行く者はなく、伊藤博文に対しては「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等の賛辞が続きました。
そればかりではありません。
朝鮮民族の罪科を謝罪するために、全国十三道に呼びかけ、「渡日謝罪十三道人民代表臨時会議所」を設ける団体も現れました。
また一方では、伊藤公を閔帝廟のように、神として祀る運動やら銅像や頌徳碑を建立する運動も起こりました。
「日韓2000年の真実」名越二荒之助 著
伊藤博文公が韓国の自堕落官僚たちに与えた名訓示!
「日清戦争後間もなく、ロシアが手を韓国にのばすや、韓国はそれをとがめぬばかりか、韓国独立のために謀る日本を嫌厭した。
韓国は自国の独立の為には、不利なことは判りながらロシアに追従したではないか。
日清の役から日露の役に至る十年間、韓国は奮って、独立の要素を滋養しなければならなかった時期であったにもかかわらず、これを顧みず、或いは右に傾き、或いは左に傾いて、その為ついに、日本が韓国のためにロシアと戦わねばならなくした。
故に今日、日本が韓国の外交権を掌中に収めたのは、当然のことである。
何故ならば、これを依然として、韓国人の手中に収めて置くとするならば韓国は何時までも、列強の競争場となり、日本のために極めて危険だからである。
然るに韓国人は、今日にいたっても尚、外交権を回復するだけの実力を養う努力をしようとせず、しきりに、他国の援助によって、これを日本から取り去ろうとしているようである。
けれども、どんな国にせよ、他国のために自国の財力と国民の生命を供するものではない。
およそ、国家は、自ら独立する要素なくて、単に、他国に寄りかかっているだけで、立っていけるものではない。
今日のままで進むとすれば、韓国を亡ぼすものは、他国ではなく、韓国自身ではなかろうか。
故に諸君は反転表裏なく、専心一意、韓国のために謀らなければならない。
日本は諸君を助けて、韓国を独立させるよう尽力しつつある。
然るに韓国人は日露戦争のような大激戦を目撃しながら、尚、覚醒しないのは何事であろうか。
そうだ。韓国を亡ぼすのは日本人ではなくて、内外の形成を察せず、無謀軽挙を事とする韓国人である。
自分は韓国の改革に絶望した事もしばしばである。
然しながら、韓国の形勢に顧みて、忍耐して従来の方針を改めないる国は自ら立たなくてはならない。
今日のように進むならば、韓国はもはや、自滅の外ない。」
アジアの未来を阻んできたのは
一部特権階級の権力欲である
真に民衆の力が台頭することを恐れるのは
アジアの結集を恐れる西洋の諸国も同じ
日本を含めアジアの民衆は愚かではなく
21世紀は真の民衆の文化交流が急速に広がる
それは時間の問題だ
何々人。。ではない。。真の平等な社会世界観
中国韓国日本
国は違えども同胞を憂う心は一つ
生命の尊さ
汗する努力の大切さ
民衆の力を知恵を結集して
真の民衆の連帯を
歴史に学び
過ちをくりかえさない
しょせん敵はひとりひとりの心のなかの
悪魔の声
自分だけ。。。自分さえ。。
以下引用
http://homepage1.nifty.com/history/history/dainihonteikoku.htm
東洋史
より
伊藤博文(1841~1909)(在任1885~1888)(在任1892~1896)(在任1898)(立憲政友会1900~1901)
明治政府の参議。初代内閣総理大臣。
長州藩の吉田松陰に学び尊王攘夷志士となる。
イギリスに留学し、帰国後長州藩の外交を担う。
維新後は岩倉・大久保・木戸と共に欧米を歴訪。
帰国後、征韓論を唱える西郷・江藤・板垣を政府から排除。
かわって伊藤が参議となる。
1881年、大隈重信を政権から追い実権を握る。
立憲君主国の制度整備に尽力し、自ら初代内閣総理大臣となる。
政党である自由党と協調して政治を進め、日清戦争を乗り切るが、政党勢力に敗れ退陣。大隈重信&板垣退助の憲政党に政権を譲った。
憲政党の板垣が引退し、立憲政友会が結成されると伊藤はその総裁となり、こんどは政党内閣として総理となる。
しかし三年後引退。政府の穏健派重鎮として大韓帝国に派遣される。
ロシア大臣との会談のためハルビン駅にいたところを何者かによって暗殺される。
朝鮮人の異常者(安重根)による犯行だった。韓国併合反対派だった伊藤が殺された事で、併合が進む事となった。
伊藤博文公は世界周知の如く日本の最も偉大かつ、有名な政治家である。
彼の韓国赴任は、たいへんな自己犠牲であった。
伊藤公が、その韓国改善のプランを打ち明けたとき、私の心は躍った。
そこには 改革、公正、斡旋があった。
(李朝朝鮮)が犯したあらゆる誤りがそこでは救済されるはずであった。
「私は、自分が韓国国民と日本国民との間に立って、両者の間に正義がおこなわれるようにすべき立場に立っていると思う」
と公はそう言明したのである。
カナダ人ジャーナリスト フレデリック・アーサー・マッケンジー
1906年 ロンドン・ディリーメール紙
韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。
高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手をとられて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において、三年間に二倍の進歩を遂げた。
宣教師 ラッド博士
私の見るところをもってすれば、伊藤侯の統治は最大なる賞賛に値するべきものであり、大変満足しております。
韓国国民は今やようやく、彼をもって自分達の友人であると知って、これを事実の上に現し始めました。
過去三年の間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして統監政治の最も熱心な支持者であることを告白せしめます。
私は伊藤侯の必ず成功 すべきことを信じて疑わないものであり、また、すべての宣教師及びその他の韓国における文明開発の義務を知る者は、等しく伊藤侯の統治を支持しなければならないと思います。
宣教師 ハリス博士
「伊藤博文公暗殺」に対するドイツ人の論調
<韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。
何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。
日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。
陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。
その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。
当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。
公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。>
ドイツ人 エルウィン・ベルツ博士
「伊藤公の追懐」
「伊藤公暗殺」に対するロシア人の論調
<思えば思うほど情けない限りである。
最後の大戦争(日露戦争)以前に伊藤公爵が言われたことを、もし、ロシアが聞いていたら、あの悲惨な戦争も、ロシアの敗戦という不名誉もなかったのである。
伊藤公爵のハルピン来訪目的は、わが大蔵大臣との外交上の空しい儀礼的なものでなかったことは、 誰もが知っていた。
伊藤公は「ロシアは満州から去れ」などという、一点張りの主張をする人ではない。
尊敬すべき老大偉人の逝去は、日本の損失ばかりでなく、わがロシアの損失であり、韓国が大損失をこうむることは必至である。>
東清鉄道長官 ホルワット少将
「ハルピン・ウェストニツク紙」
「伊藤公暗殺」に対する韓国皇帝の論調
伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。
公はわが国に忠実正義をもって望み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。
日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。
実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事の理事を解さない流浪人であろう。
十月二十七日
太皇帝(高宗)
伊藤を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。
その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない。
十月二十八日
太皇帝(高宗)
「伊藤公暗殺」に対してのイギリス人の論調
公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断派ではなく、平和的であったことはむしろ、グラッドストーンに類するところである。
財政の知識が豊富であったことはビールにも比すべく、策略を行うに機敏かつ大胆であったことは、ビーコンスフィールドに似ている。
公はすべての大政治家の特徴を抜粋して一身に集めた観がある。
殊に公は驚くべき先見の明を有し/要するに四十余年の永きにわたって終始一貫、国家の指導者たる地位を占めたのは、実に千古の偉観というべきである。
「伊藤公の性格」
ブリンクリー主筆
イギリス紙「ジャパーン・メール」
安重根の伊藤博文公の暗殺に驚愕し、謝罪・追悼の意を表した官民多くの韓国人!
(安重根の収監されている監獄に面会する者一人もなし!)
衝撃が走ったのは、韓国の王室ばかりではありません。
十一月四日の国葬(日比谷)には、韓国の勅使はじめ政府代表者らが多数参列しました。
同じ日にソウルの奨忠壇では、李完用首相の主催で、官民一万人が参列して追悼会がも催され、追悼会は全国各地に及びました。
一ヵ月後の十一月二十六日には漢城府民会、その翌日は大韓商務局総会、十二月十三日には永道寺がそれぞれ主催して、追悼式が持たれました。
当時、旅順監獄に繋がれていた安重根の所に面会に行く者はなく、伊藤博文に対しては「東洋の英雄」「朝鮮の大活仏」等の賛辞が続きました。
そればかりではありません。
朝鮮民族の罪科を謝罪するために、全国十三道に呼びかけ、「渡日謝罪十三道人民代表臨時会議所」を設ける団体も現れました。
また一方では、伊藤公を閔帝廟のように、神として祀る運動やら銅像や頌徳碑を建立する運動も起こりました。
「日韓2000年の真実」名越二荒之助 著
伊藤博文公が韓国の自堕落官僚たちに与えた名訓示!
「日清戦争後間もなく、ロシアが手を韓国にのばすや、韓国はそれをとがめぬばかりか、韓国独立のために謀る日本を嫌厭した。
韓国は自国の独立の為には、不利なことは判りながらロシアに追従したではないか。
日清の役から日露の役に至る十年間、韓国は奮って、独立の要素を滋養しなければならなかった時期であったにもかかわらず、これを顧みず、或いは右に傾き、或いは左に傾いて、その為ついに、日本が韓国のためにロシアと戦わねばならなくした。
故に今日、日本が韓国の外交権を掌中に収めたのは、当然のことである。
何故ならば、これを依然として、韓国人の手中に収めて置くとするならば韓国は何時までも、列強の競争場となり、日本のために極めて危険だからである。
然るに韓国人は、今日にいたっても尚、外交権を回復するだけの実力を養う努力をしようとせず、しきりに、他国の援助によって、これを日本から取り去ろうとしているようである。
けれども、どんな国にせよ、他国のために自国の財力と国民の生命を供するものではない。
およそ、国家は、自ら独立する要素なくて、単に、他国に寄りかかっているだけで、立っていけるものではない。
今日のままで進むとすれば、韓国を亡ぼすものは、他国ではなく、韓国自身ではなかろうか。
故に諸君は反転表裏なく、専心一意、韓国のために謀らなければならない。
日本は諸君を助けて、韓国を独立させるよう尽力しつつある。
然るに韓国人は日露戦争のような大激戦を目撃しながら、尚、覚醒しないのは何事であろうか。
そうだ。韓国を亡ぼすのは日本人ではなくて、内外の形成を察せず、無謀軽挙を事とする韓国人である。
自分は韓国の改革に絶望した事もしばしばである。
然しながら、韓国の形勢に顧みて、忍耐して従来の方針を改めないる国は自ら立たなくてはならない。
今日のように進むならば、韓国はもはや、自滅の外ない。」