ぼくたちの生が貧しく想われてしまうのは、すべてそれは生それ自体のせいでもリアルな世界のせいでもなく、生や世界や現実それ自体が、根本的で構造的な隠蔽性のなかでしか生きられないからである。さらに加えて、理知中心の生活(唯脳社会)が幅をきかせ、理知的生活に慣れきっているからだ。(古東哲明『瞬間を生きる哲学』p.122-123)
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』をまた読もうかと思っている。いや、読み通したことはないのだけれど、以前に岩波文庫版でなんとか第8巻まで読んだ時はそれなりに楽しい思いをした。筋なんてもうなにがなんだかわからない状態でともあれ吉川一義の美しい文体に惹かれて読んだのだけど、得難い体験だったと思っている。今、「また読み返したいな」と思っているのはこの古東哲明の本『瞬間を生きる哲学』を読んでいるからだ。プルーストの小説が哲学的に解析され、「今・ここ」を生きる知恵を授けてくれるものとして立ち現れる。それがスリリングなのだ。
引用部はこれだけを引けばかなりわかりにくいかもしれないが、本書自体は実に平易で読みやすい。私たちは脳で様々なことを理解し、感じる。これは当たり前のことだ。だが、『日日是好日』が教える通り私たちの生活は脳だけに支えられてできあがっているものではない。身体や心もまた大事な思考のデバイスだ。私はいつの頃からか脳の認識がさほど優れたものであるとは思わなくなった。頭で考えることには限界がある。だが、身体を動かしているとその身体の動きが心を変え、思考をブレンドするものを変える。その「身体の考え」を重視している。
私たちは、頭だけで考えると「所詮人生に意味はない」「歴史は繰り返す」と早急に「わかりやすく」「ざっくり」結論づけてしまいがちになる。脳はそういう、事実が茂らせているモジャモジャとした枝葉をバッサリカットして「わかりやすく」「コンパクトに」まとめられるものとして整理するのを好むところがあると思っている。だが、問題はその「モジャモジャとした枝葉」ではないだろうか。それは邪魔かもしれないが、豊穣なものでもあるし決してムダな情報でもないのである。それらが存在していることの意味を知ることもまた大事ではないか、と思う。
わかりにくい表現が続く。もちろんこれは他でもない私がこのことをどう表現したらいいのか、理解できていないからである。「今」を生きるということ、「瞬間を生きる」ということは、本来そう難しいことでもないのだと思う。今聞こえている音に耳を澄ませ、今見ているものを初めて見たかのように見る。匂いを嗅ぎ、味を確かめる。五感を使う。眼前にあるものは、実はなかったかもしれないものでもあるだろうし、あるいはこれからは二度とありえないものかもしれないのだ。その奇蹟を直感で感受すること。古東哲明が言いたいのもそういうことではないかと思う。
今日も仕事をした。今日は今朝から嫌な予感しかしない状態で、何度も家に帰ってもう寝ようかと思った。こういう時、頭だけを使って考えるかつての私なら帰っただろう。だが、今の私は仕事を身体でこなしているので、身体を無心に動かして仕事を務めた。おかげで帰らずに済んだ。これは別に「しんどいなら休む」という働き方を否定するものではない。しんどければ休んでもいい。だが、私は自分に負けたくなかった。だから働いた。