オヤジcafé

オヤジcafé

日常に疲れたオヤジの憩いの場『オヤジcafé』
そんな仮想の溜まり場でオヤジが今日も呟きます。

Amebaでブログを始めよう!

数年ぶりに書きます…。


ホントに、スマホ上からAmebaのアプリがいつの間にか消失していたことさえ気づかなかった…。

実際には消えたとかではなく、cloudという雲☁️の中に移動されていた…ということなのだが。


それに気付いてアプリを再ダウンロードしたのが今朝のこと。


して早速、以前の途絶えてしまった記事をみると2021年の5月だから、丸3年も更新していなかったことになる。



その間

更新が途絶える前、世間は感染症の真っ只中でしたが、私めは自身のYouTubeチャンネルの更新(動画のアップ)で、多少は元気に創作活動も出来ていた頃だったかと記憶を辿る。


そして冒頭の写真…。

話せば長い長い話しになります…。

この三年間。



体の異変が現れたのは、もういつだったか…。

職場で深夜仕事中に急な目眩から倒れる事案発生。

これが一番初めだったかも…。


して、2022年初頭から血圧が上250を超える原因不明の高血圧に(何せ普段上140くらいの値の私)。

こりゃ、てーへんだと、通院で薬物治療。だけど薬を幾ら変えても全く効果無し、最後は神頼み(いや私の場合は最初から神頼みなのだが…)信仰上での祈願をし、約半年か?突然急に下がりはじめ、草津方面には感謝感謝です。

現在は平常値に(それでもまだ高いと、現在医師※後述 に130以下にするよう言われている)


そして高血圧に悩んでる頃、同じくして血尿が頻発…これが酷くて酷くて、自分で用足ししながらドン引きするような有様。

医師からは血栓治療の薬を服用してる関係だと診断される。

内臓その他の異常は無し。

ながらも血尿は現在も度々。


更に更に、腰痛と足のしびれで受診。

椎間板ヘルニアの診断。もう歩く一歩さえ踏み出せない程の痛みとの格闘が約1年以上も続く…


更に更に更に…いや、ついに

今年5月、家族と隣市に出かけた帰り道の車内で、胸と首の辺りに異常を感じながら帰宅。

帰宅しても違和感が収まらず、自分では強がって「大したことない、寝れば大丈夫だ」と言ってはみたが、家族に強く諭され、市立病院の夜間救急へ…。

診察中少し回復したはずが、その診察中に突然に容態急変。待った無しの緊急手術。心臓が一部動いてない!(心筋梗塞一歩手前の心筋症)とのこと。意識はかろうじて保つ。


しかし本当に強がって自室に引きこもってたら、そのまま霊界を彷徨ってたことになってたか…。


で、緊急手術でそのまま入院。

心の準備も、体の準備(?)も出来てないまま、夜間の救急治療室から手術台の上の人となり、四肢に管を通され、更に股間にも管を入れられ、あまりの痛みに悶絶ベッドの上で暴れようにも『我慢しなさい!!!!』と看護師数名に体を押さえ込まれ、とにかくなんとか無事手術を終えて集中治療室へ移動…。

どうにか動かした我が手を見ると、血だらけで管に繋がれている。

いろいろ機械が繋がれた自分。

ただただ情け無い有様…。


一週間入院し、その間全く味のしない程の病院食に慣らされ(これは辛かった…)、リハビリで院内歩行訓練などをし、


一般病室に移動の最初の夜には、深夜真っ黒な得体の知れないものに襲われるも、二日目の夜からは法友の支援に救われて、薄い透明なベールのようなものに護られてる感覚。

目が真っ赤、口が緑…。モヤっとした真っ黒な一反木綿の妖怪のようなバケモノ。

光のドームという言葉が頭に浮かぶ。何せ目の前を通り過ぎる魔物が私を発見出来ず素通りするのを目撃。


冒頭写真はそうした入院中のもの。

「どうしてこうなったか」と自身で考えながらも、総裁先生と程度は違え同じような経験か…とも思う日々。


退院後しばらく自宅療養し、ようやく職場復帰するも、約一カ月前またもや職場で倒れ救急搬送。

家内は今度こそ駄目かもと思ったようだが…。


直近の倒れた件は、担当の医師の診察で、心臓の件や自病の不正脈から来るものではなく、自律神経の乱れから来る急劇な血圧低下でのめまい転倒だと…。



…とまあ、そんなこんなで約3年振りかのブログ復帰でございます。

約三年間まるまるずーっと病んでました。そして今も…。


でもまぁ、大丈夫ですよ。

肉体生命。かろうじてまだ維持出来てますし、たといあちこちガタが来ても、家族と法友と「祈願」や「教え」さえあれば、永遠の命は保てるのだという感覚は少し学べた気がしてますから。


もう毎日血圧計と向き合いながら、毎朝8錠の薬を飲み込んで、薬代が家計を圧迫しても、

日々の食事が、減塩で低カロリーな極薄味の食事でも、それも修行の一つかと思い、ね。



YouTubeの更新は途絶えてても、ありがたいことに、まだ数百名の優しい登録者さんもいますし。


たとい政治は混迷し、一国の首相が撃たれてもなかなか目覚めない世間の呑気さに嫌気がさしてもだ、


たといベッドの上で幾ら悩みもがけど不自由さからは逃れられずでもだ、



それでも祈りの光は我が身に在り。

祈りの言葉は我が内に在り。

法は死なず。

教えは色褪せず

今この時も又その輝きを強くする。



数年ぶりの更新に

ま、そんなこんなを思う私でございます。



※見た目美味しそうで、全く味のない(私観です)私用の病院食。



そうしてようやく見え始めたかすかな光。


数十年ぶりに友人に依頼され作詞したことも原因かも。

なかなか言葉が降りて来なくて苦労したなぁ(笑)

自分の動画も少しずつ始めようかと気力も湧いてきている。



うん。まだまだやれるさ。


まだまだ、やるぞ!って思ってる私でございます。


退院して、車の運転すら不安があった頃。初めての少し遠出。息子に同乗を依頼…。


久々に出かけて、数十年前に雑誌「リバティ」に記事を書き写真を撮った、日本のピラミッドだと言われている鹿角市の黒又山(クロマンタ)を撮影しました。

こんにちは


私のYouTubeチャンネル


OYAJI CAFE channel


週一でも動画をアップしなければと奮闘中。

現在、どうにか5本アップすることができました。


2021 秋田県大潟村 桜・菜の花ロードノンストップ動画Part2

https://youtu.be/ZvEyaxaZsVk



2020大館シャイニングストリート

https://youtu.be/o4Fk-4NFutE



2021 秋田県大潟村 桜・菜の花ロード総集編

https://youtu.be/epGtMYpDCDk



何せ、知識も経験もない領域へのチャレンジですので、毎回毎回ヒヤヒヤもので

『あぁこんな風になってるんだぁ』とか

『さっきの設定はどうするんだっけ?』

毎日毎日試行錯誤の日々を送っております。



とまあ、動画作りの苦労話しをしても仕方ないんで、皆さん視聴してくれて、この外出規制とか移動制限とか、飲食の制限とか、飲酒禁止要請とかの世の中で、全く別の感覚で過ごしているオヤジの



侘び寂びの世界観に浸って頂けたらと思っております。




でわでわ

だいぶ久しぶりの更新になります。



さて、今日は私めの59回目のバースディ。

もう60手前のオヤジが、自分に贈る記念に

何かしようと



頑張って、頑張って、頑張って



本日ついに、YouTubeデビュー致しました〜‼︎

🎉🎆🎉🎇🎉



チャンネル名は

OYAJI CAFE channel



オヤジの趣味全開の

再生回数など絶対つかない感満載の

侘び寂びを追求?してる感たっぷしな

地味〜な動画チャンネルです。



だって、奥の細道の現代版を目指して

というか

触発されて?動画を始めた訳だから…



これから更に

高齢者向け旅動画に

なって行くのかなぁ、とか

思っています。



百聞は一見にしかず

まずはご覧あれ。



外出を控えろの大合唱の今

この動画で旅とかドライブが

したくなるような

意地悪(笑)な動画になって行けたら

最高です。



先ずは



↓ ↓ ↓ クリックしてチョ

旅の脇道 序章



いや〜、

どうにかここまでやって来ました。

やって来れました。



全くのど素人でも

そこそこ頑張ったら、こんなのが作れちゃうってのは、スゴイことなんだと



やってみて初めてわかりました。

サムネとかも手作りだから、何か色々その方面のソフトとかもあるけど、手間はかかりましたが手作りのほうが、今はしっくり来てます。



でも

皆さんスゴイよね。

YouTuberと言われる人たちは、こんなのやってるんだね。スゴイ、スゴイ。



以前、ブログでやっつけ動画的に紹介したものもありますが、かなりリファインしておりますので



皆さんに、見ていただけたら幸いです。


↓ ↓ ↓ ポチッと押すのジャ

秋田県大潟村 桜・菜の花ロード ノンストップ動画part1



良ければこちらも



それでわ〜

□神は偉大なる詩人である



神は偉大なる詩人である

しかして

神は偉大なる音楽家でもある

神は偉大なる芸術家でもあり

神は偉大なる政治家でもある

いや

神はそのような例えを

超越した方である故に

神は神であり

造物主たるのであろう


人のおよそ見えざる風に

言葉を現し

音楽を奏で

風を現して

風の如くに世を吹き渡り

人の進むべき道を示す

誰がその言葉を聞き

誰がその声を聞き

誰がその色を見るだろう

人はただ風に吹かれている


耐えがき悲しみの中に

大いなる救いを垣間見せ

呪いと紙一枚も違わぬほどの

心の琴線に

妙なる調べを奏でては

永遠と不滅の法を

赤子がまだ見えぬ目で口に含む

温もりかの如き愛で

単純であり深淵なる言葉にて

惜しみなく分け隔て無く与え給う

誰がその救いに気付くだろう


慈雨の如き法の言葉は

天から降りては

七色の光を纏い

盲いた眼を開かせ

曲った腰を起こさせ

立たぬ足を歩ませ

塞いだ耳に息を吹き

閉じた口に甘露を含ませ

死者は蘇り

死者を招来しては語らせ

永遠なる生命の神秘を解き明かす

誰がその奇跡に浴すだろう


遥かこの世界の

人の視界の及ばぬ

森の奥の

葉先から零れ落ち

微かな雫が岩を湿らせ

やがて穿つ程の長き年月を

一瞬の時に感じては

それをただ眺めておられる

誰がその孤独を癒すだろう


そこに

一つの言葉は有り

やがてそれを

誰かが問うだろう


コロナが止まらない。
誤解を招かないよう断っておきたいが、感染が広がっていることを喜んでいる訳ではない。
更に利益誘導、経済最優先的な姿勢に批判めいたことも書いているが、国が富み、国民が豊かになることを否定している訳でもない。


しかし明らかに見切り発車であった政府肝入りのGO TOキャンペーンは、年末年始を目前に敢えなく中止となった。
開始まで時期早々論など紆余曲折あったものの、かなりのスピード感で始まったキャンペーンにしては、一旦中止にするごたごた騒ぎは醜悪そのものだった。


そして明らかに、そのGO TOが感染拡大の原因であろう日々の感染者数最多更新は、とうとう非常事態宣言を再出させた。
GO TOが原因ではないという論があることは充分承知の上でだけ。
そして但し書き付きの変異種による入国対応の発表を嘲笑うかの様に、国内で変異種による感染がすぐさま確認される…。


コロナが天意かどうかは別にして、その対策にどこか己の利を求める姿勢の垣間見える政治に対し、天意は明らかに嘲笑うかのように働いているとしか思えない。


脱炭素を謳いガソリン車根絶を掲げれば、EV車での立ち往生では凍死の恐れさえある寒波と豪雪で、日本海側に壊滅的な被害が出る。
暴風雪が台風並みの風速40m。
ここ秋田県では送電線の断線により大規模停電まで起きるわ、記録的な豪雪により雪寄せや雪下ろしの事故で死者まで出て、自衛隊派遣要請まで行われている。
これは雪害に見舞われた他の県も同じ。


そもそも、これ程の雪害がコロナ禍とタイミングを合わせたかのように発生するものだろうか。
それが信仰や宗教に直接結びつかない人であっても、何処か日本が、いや世界中の現在の状況が『何か変だ』と思う人は多いだろう。


脱炭素というワードを都合の良い時に用いる環境左翼(与党野党問わず)も、この状況で全国が電力制限になった場合、日頃の主張、批難の矛先を何処に向けるのか。
地球温暖化を叫んだ人は、氷河期を想起させる風景の前で、その下品な口を噤むしかあるまい。


雪害の被害を受けた日本海側に限れば、風力発電もダメ、太陽光パネルは雪に埋もれ発電ゼロ。
原発、火力発電は環境左翼でことごとく予算を削りまくり、廃止や減少が叫ばれた結果、全国で電力不足に落ち入る可能性。


それはまるで、ダム建設を批難し、建設を中止した結果、大雨で被害が出て、多くの人命が奪われた災害を彷彿とさせるではないか。


落ち込んだ経済を穴埋めし、景気を上向かせ巻き返すという目論見は、単なる利権が絡んだ対策に見せかけた私腹を肥やすものでは無かったのか?


これにオリンピックという一大イベントも足かせのようにずっと絡んでいる。
何が何でも開催する。人がコロナに打ち勝ったことを象徴する大会に…。この足枷が対策を後手後手にしたのではないか?


いやそもそも昨年、中国からの春節でのインバウンドを期待して遅れたコロナ対策が、今年も春節を迎える時期だからして、緊急事態宣言にも「状況を見て」などという暢気な見解を曰う反省の無さ。
とどのつまり親中こそ、全ての元凶ではないのか?
政治に巣食う親中派こそ元凶ではないのか?
突き詰めればあの人とこの人と、その党が天意の不評を買う元凶ではあるまいか。
悪面で強気の発言をしている者の醜さよ。


天意、人為を笑う。
これ程まで皮肉たっぷりな状況が起きても、爪の先ほど感じ入ることも無いのが親中派。
そもそも親中の言葉の意味ほど、華の国に好意を持つわけではあるまい。
金欲しさ。要はそこに繋がる「利」にぶら下がり、あるいは華の罠、何とかトラップに落ち、今更逃げ出しようもない、ということだろう。


全ての損得勘定、利益誘導、利権最優先。
対策は全て後手後手になり、支持率が下がり、Twitterなどが炎上してようやく初めて動き出す。


米国大統領選の有り様を見ても、
国連やら他の国やら、とにかく現在の世界中のごたごたを見ても、どれほどの金の亡者らが、華の利権にぶら下がり、買収されていたかがわかる。


そしてとどのつまりが、迫害や弾圧、言論統制やら、逮捕拘束…。
人の命がこうした者らによって容易く際限なく奪われている。
これは行き着くところまで行かなければ、事態の進行は止まないかも知れない。
行き着くところ……映画『復活の日』のラストシーンを思わずにはいられない。


しからば天意とは何かと思う。
それは、今の制度をことごとく崩し、ひっくり返す事。
それは何かを犠牲にし
何かを耐えして生まれる
新しい生活様式ではない
何と人の作りたる
耳障りの良い造語の空虚なことよ。
コロナ禍の下、次から次へと作られていく言葉。
日替わりでパネルに踊る文字。


天からの言葉は
胸を打ち、腑に落ちる。
当たり前が当たり前であることを
改めて思い出させる。
それが現象として現れれば
当然が当然では無くなったことを
思い出させる時代の揺り返しが起きるという事。


それは原始時代に立ち返ることでは無く、
またAIや電気自動車や科学万能が神では無いと
思い至らすことでもある。
神の領域の遺伝子操作を軍事利用すれば
コントロール不能の兵器が生まれる。
原発とて同じだ。
故に神の価値観は
人智の進化を否定するものでは無く
天意に叶った進化繁栄を期し
待ち願うものだと思う。


新しい価値観が生まれ
新しい制度が生まれるなら
貨幣の制度すら崩壊するかも知れない
天意は涙を流しながらその時を待っている。
貨幣とは何かを問う時代さえ
現れるかも知れない。


不遜なる人よ
今ここに
人に愛され、
人に迎え入れられ、
人に待ち焦がられる人の説く、
人の為すを超えた御業を認める世界がある。
そこには
天に愛されるとは何かが説かれている


その時に天意に叶った新しい世界は
必ず生まれるだろう。

自分が自分のことを一番知らないのではないかと思う時がある。


またそれとは逆に、他人様に自分の何がわかるものかと思うことも当然あるのだが。
他人様にあからさまに批判された時などがそうだろう…。


自分を探している。
いや「いた」と云うべきか…
私は自分がいったい何者かを長い間探していたような気がする。


向き、不向き。
得意、不得意。
興味と無関心…
そのせめぎあいの中で揺れ動き、揺れ動きしては一向に定まらぬ心。


自分の心をコントロール出来ない苦しみは、酷く辛く、苦しく、自分の体を痛め付け、切り刻んででも掴めるものならば「己の心」というものをこの手で鷲掴みし、この体から引きずり出し「これが自分であったのか」と見てみたい、そんな衝動に駆られる時があった。


思春期、青春期の悩みなどではなく、社会に出、会社勤めをしていても、今や六十を目前にする歳となってさえも、時折よぎるそんな思いを、私はずっと長い間持ち続けていた。


失いたくない家族や友人や恋人を失ったり、自分ではどうしようもない現実を受け入れるしかない、そのような局面に為す術もなく、自分はいったい何をしている…そう思うしかなかった時に。
そんな思いは激しく甦り自分を責め、まるで刃の如くに己に突き付けて来る。
握りしめた拳を床に何度も打ち付け、身体を硬直させ搔きむしり、苦悶しながら明けぬ朝を待ったこともある…。


「お前はいったい何者なのだ」と…。


そして己の無力さを突き付けられ、過信している自分を見せつけられ、自分のことをこれ程知らなかったのか、と思い知らされる。


一人の人間がいる。
何をしたいか、何が出来るか、知らないままに。
自分という仮面をつけて、世間体という服を着て、無関心の町を歩く。


条件反射の如くに喜怒哀楽に心を逍遙させ、定まらぬ心に向き合おうともせずに。


それは自分というものを追い求め、確かにこれが自分であったのか、と掴め得た人からすれば、現実逃避しているだけの愚か者のようにしか見えないかも知れない。


「リアル」という言葉が氾濫している。
しかしこれ程現実からほど遠い言葉があるだろうか。
だから「リアル」はリアルではない。
少し前なら「マジ」という表現だろうか。
「本気」という言葉に「マジ」とルビをふる感覚。
しかしこの言葉さえ「マジ」ではないだろう。


それは自分の影を忘れて歩く、まるで影のない人のように思える。
リアルでもマジでもない「自分」がそこにいる。


三次元とは仮相である。
己の影を引きずり歩くしかない仮相の世界なのだ。
然らば実相とは如何なるものか。


人の実相とは、此れ即ち「個性」である。
現世という仮相の世界にて揺れ動き、影のように一向に定まらぬこの我々の、本来在るべき世界(即ち実相の世界)に於ける「自己」を保ち得る本来の「相」とは、己ゆえにある個性のことである。


古臭い言い回し、現代的に言い換えるならば個性を持ったエネルギー生命体が人間、ということになるか。
ある種のエネルギーが生命であると私は認識するが、科学的に証明されているわけではない。
またそのエネルギー生命体が個性を持ったものということも証明不可であろう。


生命の証明。生死を科学的に証明することは多分不可能であると私は思う。
科学的思考やそれに向き合う科学的姿勢を取ることは出来たにしても、それを証明することはおそらく現代科学では不可能であろう。
何らかの生体反応や、呼吸の有無、脳波の有無で生死を分かつとして、それが「己の個性」が失われると私はどうしても信じることが出来ない。
命というものが単なる化学反応ではないと思うことは、既に信仰の領域であるからして、それを認めない人にとっては単なる戯言にしか過ぎなくなる。


一人の人間の、自分を見つけ出そうとしてきた苦悩は、単なる時間の浪費にしか過ぎないものだろう。
しかし反対に似たような思いを抱き、歳を重ねてきた人にとっては、こうした考え方はある種の福音となるはずである。
人の個性は失われることがない。
魂は永遠なのである。


その個性を仮相の世界に映し出し、しかも本来の自己を喪失し、更にその自己を三次元世界に形あるものにしたのが、実は己自身であり、喪失した自身の影を何とか光に向かうことでより確かなものとすべくして、我々は存在しているのである。
かなりわかりにくい表現にはなるが、それが霊的世界の本当の姿だ。


つまり言い換えるならば、実相世界への郷愁に似た朧気な記憶が呼び覚まされ、永遠に掴め無い己の「個性」という影を掴もうとしてもがき続けているのが仮相世界に生まれ落ちた人間なのである。
故に「個性」は「使命」と同義となる。
個性の自己展開は魂の使命の発露である。


心を定め、影と向き合い、見つめなければ「自分」というものは見つからない。
見つかる確証もないが、見つめなければ、見ようとしなければ見えないのが己の真なる姿だ。


こうして過去を振り返って見れば
自分は本当の自分から目を背け
本当の自分とは何者かを探していながら
本当の自分と向き合うことを拒んでいたのだとわかる。


太陽を見上げ、月を眺め、雲の流れを見つめ、風を感じる。


空(くう)なるものにこの身を映し、無為と無常に心遊ばす。


忙しい時にふと立ち止まる、そんな心を何処かに持て。
そんな姿勢が自分を見ようとする手だてとなるだろう。


太陽も月もそこにある。
雲は流れ、風はいつも吹いている。
それに気付けないのは
己を見失った自分が
我が物顔で生きている風で
実は生かされている真実から目を背けているだけのことだ。


人はやがて誰もが実相の世界に赴く。


旅の脇道、寄り道、道草…。
全ては、自分が何者であるかを知る為に。
◻︎憎しみを捨てて愛を取れ


光は灯されていて
光はこの黒雲で塗り込められた空の
向こうに確かにある
光は光であり
闇がいくら広がろうとも陰ったり
輝きを失うことはない
ならばその光を受ける側
光を見る側
照らされる側はどうだろう
光が射すと
何故か暗闇に身を潜め
眼や顔を覆ってしまうような
一体それはどういうことなのだろう
光から目を逸らすとは
どういうことなのだろう
まるで薄汚れた裏通りに
真夜中に微かに灯る明かりのようなものに
いつまでも惹かれているような
しかしそのことに何の疑問も感じず
光から逃れるかのような日々を
是とするとは
光を求めつつ
光射せば光を遮り光から目を逸らすとは
それはどういうことなのだろう

どうして世界は
こうも容易く闇に沈もうとするのだろう
冬の日の
陽の光のなんと優しく嬉しいことか
感謝を忘れた人の
なんと愚かなことよ
俯いてばかりいても
その見ているものは己の影なんだと
君に教えたくなるではないか
この世の現象
日々起きていることを見聞きするたびに
そのような気がしてならない

かつて歓喜で迎えられたはずの指導者は
憎しみや怒号によって追われ
次々と座から引きずり降ろされていく
いつの間にか
全てのものから
優しさや
労りや
与え合い分かち合おうとする心が
失われてしまったようだ
官は官で
民は民で
野心と保身の狭間で
我が身を得させることに夢中になり
傍らで倒れた者に
手を差し伸べたり
我が身を捨ててまで助けようとする者など
居なくなってしまったかのようだ
倒れた者をなおのこと使役し
踏み台にして
のし上がろうとする者たちばかりだ
自らが築き上げた上下関係に
奴隷使いが闊歩する
だから尚更
痛ましい出来事に
また今日も
胸締め付けられる

施設での虐待や殺人
乗り物内での傷害
病院での薬物混入
高齢者や障害者
社会的弱者を狙った事件が後を絶たぬ
ささやかな光りの灯台であり
誰もが最低限の拠り所として
限りない安堵を当たり前に感じる筈の
家庭でさえ
親の身勝手に
子が殺されていく
強者の理論しか持たぬ指導者の治める世が
そんな世情を映しだす
やがて誰もがそうした者となり
誰かを弱者にし
己れを強者として
恥じもせず憚かりもせず
欲望を抑えきれず
容易く人の命を奪う
命を奪うだけに飽き足らず
肉体を損壊して廃棄する
狂う者たちを
平等や自由という庇護する卓に乗せて
権利や保障を容易く持ち出せば
廃れに拍車は掛かり
世はいとも簡単に乱れる
全ては奪う思いや
裁く思想を持つ指導者が治めるが故
公の責務を特権と思い込んだ成れの果て
差別や格差は
持って当たり前
あって当たり前かも知れぬが
それを過ちて持ち出し議論すれば
忽ちに平等と公平は
その輝きを失っていくのは何故だろう
嗚呼ほら
我が物顔がまかり通る
したり顔がそれに続く
公人聖職者による犯罪は後を絶たず
その低年齢化は加速し
事件は公けになる度に
日常の直ぐそこに潜んでいることに驚く
児童虐待とは他人がするのでは無しに
今や親が我が子を虐待し
命を奪うことになってしまった
あるいは年老いた親を
いとも容易く殺す子もいる
昨日の友が
ネットを隠れ蓑にし
今日にはあなたを傷つけている
強者の欲と身勝手が
弱者を今日も作り出し
身勝手な思いによって
一方的ないじめや差別に
命を奪われ
自殺する者は後を絶たぬ
自殺者三万人超
これは終わることのない戦争を
毎年毎年しているのと同じではないか
あの未曾有の大震災
その二倍もの人が毎年自らの命を絶っていて
良い国 良い世の中と
自画自賛し踏ん反り返る椅子は
疾うに蝕まれ
最早朽ちるのを待つしかあるまい
不正や利権が罷り通る国で
主(あるじ)の座に就く者
そこより引きずり下ろし
我が座る高さに引きずり下ろすことを
是としていることではない
だが明らかに
その座に就くべき者ではない
只の者達が
椅子に座る順を決め
世が安泰な筈も無い
数で決める座ならば
その数を誤魔化してしまえと
不正や買収が罷り通る
真を真と認めず
偽りを真だと執拗に主張し
論理の破綻している反対こそ
正しいとし
執拗な妨害は続け
精神的苦痛を人に与えて
己れに都合良い権利のみを行使する
大多数の思想や主義など
決して相容れない活動家に
それは迎合することでもない
個人の命の尊さは
過去の歴史を持ち出さなくとも
何ら変わることはない

属する組織において
様々な理由をこねくり回し
怠惰に胡座をかく人々
その費用がどうして捻出されてるのか
不思議でたまらない

学校でも
会社の中でも
ごく普通に暮らす日常の中でも
自殺が止まらない
教育者や教師の犯罪が後を絶たない
公務員の不正も無くならない
活動家と呼べば聞こえはよいが
教育者と公務員
団体職員の成れの果てが
そうした社会問題の温床ではないか

国会は国民不在の印象が高まるばかりで
自画自賛ばかりが聞こえてくる
制度の運用にしても
増税までし
運用して損を出しながら
トータルで税収は増えていると曰う
民を愚弄するな
民に施している言葉を吐くな
税収が伸びたというならば
減税を議論せよ
国民からどのように金をむしり取るか
それが上手くいった
だから政府は正しい
国民を馬鹿にするのも大概にして欲しい

そして思う
どうして人間はこうも容易く
自分を強者に置き
徒党を組みあるいは個人であっても
他者またはそうした個人
または少数の弱者を迫害できるのだろうかと
あるいは立場を利用して
悪事をはたらくことができるのだろうと
どうしてそんなに簡単に偉くなれるのか
刑罰や社会的責任は
その罪を問われた時に
果たして見合っているのだろうか
国外に目を向けても
国家間や人種の争いは後を絶たない
差別
肌や目の色の違い
そこに優劣は無いはずなのに
人種間の対立
暴動やテロは今尚続く
難民受け入れは人権からかけ離れ
宗教や思想の対立から
爆破や破壊が後を絶たない。
歴史的な建造物は失われ
日常の平安の崩壊は起きている
拘束拉致された婦女は暴行を受け
子どもらは逃げ惑う
目を背け
耳を塞ぎたくなることばかりだ
命が簡単に奪われ
命が塵芥こ如く捨てられている

憎しみを捨てて愛を取れ
この世も霊界の一部なのだ
憎しみを捨て去り愛を分かち合え
まるでこの世が地獄のようで
苦しみや悲しみが
風のように吹き荒れているではないか
この世は霊界の一部
この世を地獄にしてはならない
地獄も霊界の一部
迷い過てるものたちが赴く世界
しかし地獄は霊界の全てでは無く
その霊界のあるべき姿でも無い
この世が金次第
名前次第
権威次第
肩書き次第ならば
この世は既に地獄ではないか

その地獄から這い出し
抜け出し
光溢れる世界に転化する為には
どうしても愛が必要だ
大いなる愛は
大いなる許しと同義であり
光そのものなのである
許しが伴う為には
理解が必要だ
現実から目を逸らさず
ありのままを見つめながら
互いが互いを受け入れ
その先に光るものを見なければ
愛によって見たとは成らない
無限遠点から射し来たる
無限供給の愛よ
無限供給の光よ
無限なる許しよ
今こそ世に降り給いて
この世を浄化し給え

無限供給のその愛を
愛の供給の源からぶっといパイプを引き入れ
押し流すが如き愛を
この世に流し込む必要がある

五芒星に
光る十字は立つ
結ばれた結界の中で
自らの脇腹を刺す者を許し
その国の者を許し
この世界を許し
全てを許そう
大いなる許しは
結界によって保たれる
悪と見えし全ての事象を
倒すことではなく
許しによって退ける
それが御技の源
愛は大いなる許しによって
ゆえに無敵となる

憎しみを捨てて
愛を取れ
憎しみを捨てて
愛を選ぶ時に
あなたには神や仏と同質なるものの力が
その身に宿り
その身に及ぶのである
寒波襲来…


漢字の見た目とは裏腹に
冬の夜の静けさといったら無い。


手の指の芯まで冷えて
ストーブの温もりにかざしても
なかなか当たり前の感覚さえ戻らない…
そんな北国暮らしの
冬の過ごし方。


あったかシチューや
薪ストーブのパチパチと燃える音や
顔は寒くとも体はぽかぽかなコタツに入り
ゴロンと横になっているとか…。


でも外のマイナス何℃とかの
降り積もる雪が止まない
北国の暮らしも
人が暮らす以上
そこには様々な営みが
長い間連綿と続けられて来たという
生命の証がある。


家族とはそのようにして
築かれ、繋がれ、次の命へと渡されてきたのだろう…。
それはまさしく火の鳥のようなものではないのか。


私はコーヒー党ですが
レギュラーコーヒーではなくて
あくまでインスタントの
バリスタコーヒーでございます。
でも、それが例えインスタントであろうとなかろうと


枕元に湯気の立つコーヒーカップと
火をつけたばかりのタバコの煙があって
気の利いた一本の音楽さえあれば
降り頻る外の雪の世界から
少しは隔絶されて
自由な安らいだ一時を過ごせるものです。


さてさて静かな夜4
残念ながら火の鳥は無いので
火の鳥については語るほどの知識も思い出も持ち合わせてはいません。
手塚治虫のマンガを一つ一つ取り上げてたらキリが無いのだけれど、
もちろんブラックジャックとかは大好きです。
でも私の中での手塚治虫マンガの最高峰は「地球を呑む」という作品なのです。
知ってる人いるかなぁ…。


貨幣経済が崩壊した地球の姿を描く作品で、自給自足とかね、近未来的でもあり、予知的示唆を含む作品。
まさにこれは2021年以降に予知される大崩壊時代じゃあないのか?
全てのモノは一度破壊され正しい真理と価値観の上に再構築される。
そのような空気を感じさせるマンガ…。


で、ハイファイセット 火の鳥。
透明で格調高い山本潤子さんのボーカル。
染み渡る高音に酔いしれて下さい、静かな夜に…。

あけましておめでとうございます。



厳しい寒波での年明けになりましたが

この年が

皆様にとりまして

幸多き年となりますよう

心からお祈り申し上げます。



本年もどうぞよろしくお願いいたします。




令和三年元旦




年明け早々、

動画を作ってみました。



最近の、仕事帰りの深夜の

ドラレコ動画になります。

深夜なので走ってる車も少なく

映像だと雪道の割にスピード出過ぎ?

に見えたりしますが

スピードはいたって制限速度以下の

ドラレコの映像ならではの特徴です。



ささやかな地元の風景の切り取り動画ですが

どうぞ。





やっつけ作業だったので

ブラッシュアップしました。


相当久々の更新になります。


コロナ一色だった2020年も早年末、12月も中旬になりました。


豪雪、地震頻発、コロナ感染者数は連日最多更新。
今、これを書いている時にも地震が発生しています……。
高齢者の過失運転事故も毎日のようにニュースに上ります。
そしてとうとうというか、やはりというか、この年末を控えてのGO TO 何ちゃらの停止。飲食店の自粛、住民の移動も自粛……。


ハァ……この国は、この一年間何をしていたのだろう。


キンペイの招待も何故か再燃。
オリンピックは何が何でも開催。
GO TOの様々な施策とて、外貨目当ての経済優先の、しかもそれは国民経済を憂慮しての政策というよりは、政府のやってる感を保つ為と、自分らの支持基盤へのご機嫌取りの面が、そうさせたと思わずにはいられない不信感。
先日には『尖閣は、我が領土』と言われ、何も反論出来ない政府のダメさ加減。


……政治や政府のダメさ加減がコロナウイルスの如く加速していく。
因果関係をグラフに表したい気さえする。


と、そんな暗雲に覆われたこの国(地球)に、一条の光射すが如くもたらされた言葉。


『With Savior(ウィズ セイビア)』


つまり、『救世主と共に』。


20世紀末のノストラダムスの予言などが話題になり、けれどもまだ信仰と出会う前の頃に、心のどこか片隅で、ずっと救世主が現れるに違いない、と確信にも似た感覚をずっと抱き続けていた若き日を思い出します。


信仰に出会い、神々の主に相当する存在の名が『エル・カンターレ』ということを知り、しかし知り得た知識は信仰をベースに置く為に『我々の魂の親』『創造主』という面は持ち得ていながら、『救世主』というもう一つの側面としての感覚にはあまり重きを置かない30年でもあった気がする。


私は、何故か矛盾する感覚を、『信仰』という言葉で言い包めてしまったのかも知れない。


故に今年、幸福の科学にてもたらされた『With Savior(ウィズ セイビア)』というワードは、信仰に出会いながら蓋をしてきた若き日の感覚を完全に呼び起こすキーになったとも思うのです。


それは今年の世界的パンデミックに対して、決定的な信仰ワクチンという意味を持ちながらも、最悪世界が全世界的に沈没し、破壊されていく近未来の姿を予見もしている言葉でもあるかと。


人類がまるで神に見放されてしまったかのように見える災いに見舞われた時に、我々が人の無力さを痛感しながら天を仰ぐ日が来た時に、この言葉を思い出しましょう。
困難な状況に見舞われた時には『With Savior(ウィズ セイビア)』と唱えましょう。
それがあなたを救い、あなたの大事な人を救うキーになります。


さて、今日はもう一つ。
二つの霊言が降ろされた、ということなので『下村湖人』のことについて書きます。
興味ある方は最寄りの幸福の科学へどうぞ。


さて私は、中学三年の夏休み……
夏休みの課題の読書感想文で次郎物語のことを書いた記憶があるので、時期は確かではないけれども、多分その頃読んでいたものと思います。
自分の幼い頃からの生活環境、生い立ちと小説を重ね合わせて涙を流しながら読んだ記憶があります。
次郎物語については数年前のどこかの記事でも書いた記憶がありますが、今からもう約45年も前に貪るように読んだ本の、その時に味わったなんとも言えない悲しみや苦悩、淋しさを未だに憶えている本ですので、私の青春時代の始まりの人格形成には大きな影響を与えたものだったと思います。


この『青年の思索のために』という本も、ことあるごとに読み返していた本であるので、もう色褪せて赤茶けた本ではありますが、未だ手元にあったので引っ張り出しました。


始めに書いてはおきますが、私は読書家ではありません。したがって本は割と所有はしていますが多読でもありません。
本を読むペースも多分遅い部類です。
ですが、気に入った本はかなり繰り返して読むので、手元にある本の一冊一冊にはかなり愛着を感じてはいます。


読み返して、パラパラページを捲ると、幸福、愛、真理、心……そのような単語が繰り返し現れ、みて取れる、まるで現在の信仰に誘うかのような道しるべのような本であった、遠い感覚が蘇る不思議な本です。
このような本が、(文庫本)新潮文庫 昭和48年(第30刷)で180円。
そんな時代です。


次郎物語では『無名塾』『無計画の計画』『摂理』などという言葉が非常に印象的だった記憶がありますが、仮名遣いや文体なども多少読みづらいけれど、何故か自分には『合った』本であったのかも知れません。
一冊の本との出会いは多分そうなのかも……。


皆さんもよろしければどうぞ。