「減点法」 と 「加算法」
皆さんはどちらを生きてくすべの一つとして、この言葉のどちらを活用していますか?
形あるものではないから活用ではないですけど、みんなどちらかに人間の癖として持ち得ていると思います。
と述べてもなんのことやらですよね?
一般的にわかりやすくいうと、ポジティブとネガティブに似ています。
「原点法」=「ネガティブ」
その反対に、「加算法」「ポジティブ」
似ていても、ポジティブは認知されても、加算法は認知されていない、いないからゆえに、比較的にポジティブはなれたりできる人はたくさんいても、ポジティブさんが必ずしも加算法ができているとは限りません。
最悪なのは、ネガティブ減点法さんです。
最高なのは、ポジティブ加算法さんです。
だけど、残念ながら私のまわりや世間全体は前者、いや違う。
どこが違うかって、やっかいなポジティブ減点法さんです。
何か自分にいやなこと、予期せぬつらい出来事が起きたとき、「何故こんな目にあうんだ!?」とか「あの人は順調なのに何故自分はいいことないのだ!?」 とか、「自分はだめな人間なんだ!?」とかって言う人たくさんいますよね?
何もない平穏なときにはあぐらをかいてる、幸せな最中はよきせぬことを起きる前触れも見逃すほど、人ってあまり計画的に先を見据えることをしませんね。
だからよきせぬにアタフタしたり、その反動でネガティブシンキングになるのです。
まったく考えこまない、まったく悩まないというのは難しいけれど、でも最小限に抑えることはできます。
それが加算法です。
減点法をする人は、普段は過大評価いわゆるうぬぼれ屋さん、うぬぼれ屋さんは基本プライドが高く依存心の強い人。
もっといえば打つの人も減点法なんです。
やたらに何かや人を比べたり、評価を気にしたり、失敗やミスを恐れたり、そんな人のほとんどが減点法。
10から数えて、悪いときだけカウント、いいときは対象外。
私から言わせれば「何様!」「上でも下でもない」
そのくせ、切り替えができないんですよね。
加算法、0から数える人、小さな幸せをみつけては喜べる加算法は、よきせぬに最初は悩むものの、すぐ理性で受け止め、理性で解決手段を見いだし、理性で行動。
単なるポジティブはすぐにへし折られます。
だから加算法を自分に取り入れなければ、単なるポジティブは単なるおめでたい人になってしまい解決や苦しみから逃れられません。
0から数えてひとつひとつを感謝すれば、もし万が一今まであり得なかったことや、苦難も簡単とはいかずとも乗り越えやすい近道だと私は思います。
ぐちをこぼしたり、人を避難や反論したり、そんな感情むき出しでは解決どころか悪化するだけ。
感情より理性。
ね、世の中の出来事まさしくそうでしょ?
私は今思えば小さいときからいろんなことがあったからか、そもそも持ち得てたかはわからないけど、しぜんと身にして、培ってきたのだと自分で自分をより理解することができました。
卑下する裏にはうぬぼれという根底がある。
弱い心はプライドが高い。
強い人はプライドなんていりません。
プライドがないから依存しません。
物事の捉え方を変えるとこれからの自分やまわりの人生や道が変わっていきます。
自分はすごいはずだと思うことこそが大間違いであり、何かあったら、すごいはずと汚い邪心が「私なんて」になるのです。
最初から0なんだもの、「自信がないからいやだやれない」←減点法ではなくて、「自信はないけどやってやる!」 ね、意味わかってきたよね?
自信がないのは当然なのになぜか人は減点法のやりかた。
おかしいよね。
私の切り替えのはやさ、なんとかなる精神はこの加算法からきてるのです。
みんなが減点法でなく、加算法だったら、もっと楽に、息苦しくなく、勉強や仕事や人生に未来にと立ち向かえることができるのにな。
加算法は感謝や愛が芽生えます。
もしみながそうであったならもっと平和だったのでしょうね。
私は加算法を大事にしてうぬぼれず、くさらず、蔑まずこのままの私、いや今まで以上に磨きをかけたいと思います。
そんなことを思う今日このごろでした。
では、おやすみなさい。
形あるものではないから活用ではないですけど、みんなどちらかに人間の癖として持ち得ていると思います。
と述べてもなんのことやらですよね?
一般的にわかりやすくいうと、ポジティブとネガティブに似ています。
「原点法」=「ネガティブ」
その反対に、「加算法」「ポジティブ」
似ていても、ポジティブは認知されても、加算法は認知されていない、いないからゆえに、比較的にポジティブはなれたりできる人はたくさんいても、ポジティブさんが必ずしも加算法ができているとは限りません。
最悪なのは、ネガティブ減点法さんです。
最高なのは、ポジティブ加算法さんです。
だけど、残念ながら私のまわりや世間全体は前者、いや違う。
どこが違うかって、やっかいなポジティブ減点法さんです。
何か自分にいやなこと、予期せぬつらい出来事が起きたとき、「何故こんな目にあうんだ!?」とか「あの人は順調なのに何故自分はいいことないのだ!?」 とか、「自分はだめな人間なんだ!?」とかって言う人たくさんいますよね?
何もない平穏なときにはあぐらをかいてる、幸せな最中はよきせぬことを起きる前触れも見逃すほど、人ってあまり計画的に先を見据えることをしませんね。
だからよきせぬにアタフタしたり、その反動でネガティブシンキングになるのです。
まったく考えこまない、まったく悩まないというのは難しいけれど、でも最小限に抑えることはできます。
それが加算法です。
減点法をする人は、普段は過大評価いわゆるうぬぼれ屋さん、うぬぼれ屋さんは基本プライドが高く依存心の強い人。
もっといえば打つの人も減点法なんです。
やたらに何かや人を比べたり、評価を気にしたり、失敗やミスを恐れたり、そんな人のほとんどが減点法。
10から数えて、悪いときだけカウント、いいときは対象外。
私から言わせれば「何様!」「上でも下でもない」
そのくせ、切り替えができないんですよね。
加算法、0から数える人、小さな幸せをみつけては喜べる加算法は、よきせぬに最初は悩むものの、すぐ理性で受け止め、理性で解決手段を見いだし、理性で行動。
単なるポジティブはすぐにへし折られます。
だから加算法を自分に取り入れなければ、単なるポジティブは単なるおめでたい人になってしまい解決や苦しみから逃れられません。
0から数えてひとつひとつを感謝すれば、もし万が一今まであり得なかったことや、苦難も簡単とはいかずとも乗り越えやすい近道だと私は思います。
ぐちをこぼしたり、人を避難や反論したり、そんな感情むき出しでは解決どころか悪化するだけ。
感情より理性。
ね、世の中の出来事まさしくそうでしょ?
私は今思えば小さいときからいろんなことがあったからか、そもそも持ち得てたかはわからないけど、しぜんと身にして、培ってきたのだと自分で自分をより理解することができました。
卑下する裏にはうぬぼれという根底がある。
弱い心はプライドが高い。
強い人はプライドなんていりません。
プライドがないから依存しません。
物事の捉え方を変えるとこれからの自分やまわりの人生や道が変わっていきます。
自分はすごいはずだと思うことこそが大間違いであり、何かあったら、すごいはずと汚い邪心が「私なんて」になるのです。
最初から0なんだもの、「自信がないからいやだやれない」←減点法ではなくて、「自信はないけどやってやる!」 ね、意味わかってきたよね?
自信がないのは当然なのになぜか人は減点法のやりかた。
おかしいよね。
私の切り替えのはやさ、なんとかなる精神はこの加算法からきてるのです。
みんなが減点法でなく、加算法だったら、もっと楽に、息苦しくなく、勉強や仕事や人生に未来にと立ち向かえることができるのにな。
加算法は感謝や愛が芽生えます。
もしみながそうであったならもっと平和だったのでしょうね。
私は加算法を大事にしてうぬぼれず、くさらず、蔑まずこのままの私、いや今まで以上に磨きをかけたいと思います。
そんなことを思う今日このごろでした。
では、おやすみなさい。
「私なり」
「私なり」という言葉、どのようなイメージで、どんな風に響き、言ったり言われたりしてますか?
おそらく、さほど悪いイメージは持たれていないかもしれませんね。
なんとなく相手がこの言葉を使って、「私(俺)なりに考えました」
「私(俺)なりに努力しました」
なんて言われると、その人自身は謙虚良く、限界点までいきついた上での言葉に聞こえるかもしれません。
きっと、みんなそれが普通だと思うでしょうね。
でもね、私には一見そのように聞こえても、相手の思い癖や、相手の普段からの行動で違うことがわかります。
本当に努力を惜しまずがんばってる人はわざわざ「努力をした」なんて言いません。
それと同等で、「私なり」に平然と使うと、まだまだ考えれるよちもあれば、努力するよちがあるのです。
「なり」はある種の逃げだったり、防御だと思います。
世は自分の力量がないことを公表し、自分にやるだけやったとだからもうしかたないと甘えているものだと思います。
私自身、この言葉の意味を考えてから「なり」は言わないようにして、「らしく」にしました。
結果、なりと同じ結果であれ、言い訳せず、堂々と力量 を認め、今現時点のここまでの自分を「私らしく」に置き換え、言い換えると、聞こえも、捉え方もよくなります。
「なり」で謙虚より、「らしく」で素直に力量を認め、前に進むほうがいいなって感じます。
改めて考えてみてはどうですか?
おそらく、さほど悪いイメージは持たれていないかもしれませんね。
なんとなく相手がこの言葉を使って、「私(俺)なりに考えました」
「私(俺)なりに努力しました」
なんて言われると、その人自身は謙虚良く、限界点までいきついた上での言葉に聞こえるかもしれません。
きっと、みんなそれが普通だと思うでしょうね。
でもね、私には一見そのように聞こえても、相手の思い癖や、相手の普段からの行動で違うことがわかります。
本当に努力を惜しまずがんばってる人はわざわざ「努力をした」なんて言いません。
それと同等で、「私なり」に平然と使うと、まだまだ考えれるよちもあれば、努力するよちがあるのです。
「なり」はある種の逃げだったり、防御だと思います。
世は自分の力量がないことを公表し、自分にやるだけやったとだからもうしかたないと甘えているものだと思います。
私自身、この言葉の意味を考えてから「なり」は言わないようにして、「らしく」にしました。
結果、なりと同じ結果であれ、言い訳せず、堂々と力量 を認め、今現時点のここまでの自分を「私らしく」に置き換え、言い換えると、聞こえも、捉え方もよくなります。
「なり」で謙虚より、「らしく」で素直に力量を認め、前に進むほうがいいなって感じます。
改めて考えてみてはどうですか?
10年目☆
2008/09/22日から始めたブログが明日で丁度10年目を迎えることができました!
ここ最近では、最初の頃のように毎日のようには投稿することはできなくなりましたけど、でも、その時々で、真っ直ぐ素直な想いや考えを書いてきたつもりです。
私なりではなくって、私らしく自分の考えや生活や想いに向き合ってきました!
最初の頃は自分たけの目線だけで、どこにでもある日常を書いていましたけど、そんなんじゃ物足りない、意味ないなんて思えてね。
だってさ、単なる日常を書いたところで他人は比べるだけの軸だけしかなく、興味ではなく関心じゃないものね。
それこそ単なる日常を綴って残すなら、自分だけしか見ることのできない日記をつけたらいいじゃない!
毎日書くのが難しいのなら、毎日自分自身を見つめる“内観”という5分程度をもうけて実行すればいいと思うの。
私もできるだけその時間を持つように心がけています。
毎日は無理ですけど、週のうちの半分はきちんと客観的自分やまわりを内観したり、分析してますね。
私の場合、5分では足りないので、その都度その都度実行実践しています。
そうしていく中で、これは伝えたい、警告したい、意見したいことがでてきます。
やはり自分だけではなく、誰かのために書きたいなって。
ずっと読んでくださる人がいるみたいでとても感謝しております。
自分のスタンスを崩さぬよう、これからも時々ではありますけど、ちょっとずつ書いてきますね。
ぁりがとう&よろしく☆
ここ最近では、最初の頃のように毎日のようには投稿することはできなくなりましたけど、でも、その時々で、真っ直ぐ素直な想いや考えを書いてきたつもりです。
私なりではなくって、私らしく自分の考えや生活や想いに向き合ってきました!
最初の頃は自分たけの目線だけで、どこにでもある日常を書いていましたけど、そんなんじゃ物足りない、意味ないなんて思えてね。
だってさ、単なる日常を書いたところで他人は比べるだけの軸だけしかなく、興味ではなく関心じゃないものね。
それこそ単なる日常を綴って残すなら、自分だけしか見ることのできない日記をつけたらいいじゃない!
毎日書くのが難しいのなら、毎日自分自身を見つめる“内観”という5分程度をもうけて実行すればいいと思うの。
私もできるだけその時間を持つように心がけています。
毎日は無理ですけど、週のうちの半分はきちんと客観的自分やまわりを内観したり、分析してますね。
私の場合、5分では足りないので、その都度その都度実行実践しています。
そうしていく中で、これは伝えたい、警告したい、意見したいことがでてきます。
やはり自分だけではなく、誰かのために書きたいなって。
ずっと読んでくださる人がいるみたいでとても感謝しております。
自分のスタンスを崩さぬよう、これからも時々ではありますけど、ちょっとずつ書いてきますね。
ぁりがとう&よろしく☆