まずはじめに、今日は本来のブログの主旨、

ワクワクやドキドキ、楽しいことから大きくそれることを詫びる。しかし、今の気持ちを素直に書きたいので書く。


かの有名な名著、『夜と霧』をひょんなことから読むことにした。

たまたま読んでいた遠藤周作先生の本、たまたま録画した番組でこの本が出てきたからである。これは…何かの縁と思い、読むことにした。


早速手にしたところ驚くほど読みやすかった。気になるところへ付箋を貼り一気に読んだ。

※ただし、内容を本当に理解してはいない。

…そして最後の訳者よりの部分を読み、思い出す。…10年以上前、私は図書館でこれを手に取り、あまりの内容の重さと写真に、ダメだこれは…と諦めたことを。私が抱いた、夜と霧という小説のようなタイトルと全く内容が違ったからだ…。まさかアウシュヴィッツの記録とは思わなかった。


今回、私が読んだのは新訳である。

諦めたのは旧訳で有名な方。あの、恐ろしい写真がたくさん掲載されたものである。


しかし新訳には、旧訳にある解説、写真も全て省かれあくまで読み物として製作されていた。

悩んだ末に、私は全く別の本を読む。


エディ・ジェイク著『世界でいちばん幸せな男』。これはとても怖かった。生まれて初めて、本を読み手が震えた。ページをめくることが怖い本だった。しかし読みたい、知りたい…という思いでめくり、途中、鼻と目からずっと液体が出ていた。途中あまりの涙に、本が読めなくなる経験などこれまでなかった。そして、

私は一生大切にしたい言葉と本に出会った。


そして、…本家本元に挑むことにした。

正直、霜山先生がおっしゃるように、骨っぽいごつごつした…文。でも私には何年も何年も読み続けられてきた重みを感じた。なぜ、夜と霧なのか意味を知りとても怖くなった。このアウシュヴィッツを始めとする、人間の犯した愚かな歴史は絶対に忘れてはならないと改めて思った。


しかしながら、手元に届いてすぐ読んだが、

最初の解説約70ページと後半の写真で私は気分が萎えた。新訳とエディ氏の本でクッションを置いたが、やはりダメだと思い一週間以上触れなかった。しかし…少しずつ目を通した。


新訳、旧訳両方読み、私の今ある感想は、

なぜ、人間はここまで酷いことが出来たのか、なぜここまで残酷になれるのか、

なぜ、逆に生き残ることができたのか、


私は、もしアウシュヴィッツかどこか当時、収容されたら、その日の唯一の食べ物を病人へやることも出来ない愚かな人間であり、

間違いなくフェンスへ走る(高圧電流の流れるフェンスへ行き死ぬことを選ぶ)側であるということ。総じてこの本の理解には、私にはだいぶ時間がかかるということ。もしかしたら、本当に理解など私にはできないかもしれない。


そして、エディ・ジェイク氏の本は、

同じ体験をした人ではあるが、『夜と霧』のフランクルは医者であり学者であるので、淡々とこれでもかと淡々と綴る。そしてある時、さりげなく心につきささることを書いているので、さすが!というしかない、すごい技術である。が、


エディ氏は、自分が体験したことを自分の言葉で書いてある、だからどんどん入ってきてしまい、琴線にガンガン触れてくるように感じた。正直、『夜と霧』よりも恐ろしいかもしれない。でも彼の言葉は深く重く温かだ。私は読み終えた翌日、すぐに友人たちへ迷惑だろうが、いつかこの本を読んでほしいとメールした。


一度諦めた『夜と霧』を読めたことは、不思議な縁に感謝し、よかったと思う。内容は酷いが目を背けてはならない。時間はかかるだろうが、今後、やはり理解などできないかも知れないが、この本とは今後もどうにかして向き合いたい。


そしてエディ・ジェイク氏の冥福を心から祈り、勇気を持ってこの本を書いてくれたことに畏敬の念と感謝を送りたい。


最後にエディ氏の本から、今の私の心に残り、今後大切にしたい言葉を記し、今日は終えたい。


“わたしの後ろを歩かないで。あなたを導けないかもしれないから。わたしの前を歩かないで。あなたについていけないかもしれないから。ただ、並んで歩いてほしい。友として。

 出典不明”

エディ・ジェイク『世界でいちばん幸せな男』より。