私とキリスト教との出会い

 

私は卒業した大学がキリスト教プロテスタント系の学校だったので、必然的に聖書を学ぶことなった。授業を受けてときに、ちょっとショックを受けた。私はカトリックの人と付き合いがあったので、聖母マリアの扱いが雑で、不名誉なものであったからだ。

 そのときはとにかく変な話ばかりが印象に残り、まじめに受け入れる気にもなれなかった。ただ、以前にカトリック教会のミサに連れていかれたときに、教会の厳かな雰囲気がいいなとは感じていたので、彼らの説明は幻滅でしかなかった。

 

聖書は一冊の本ではない、二冊の合本

 その変な話とは、聖書の前半部分といえる旧約聖書のことだと、あとで理解した、逆に後半の新約聖書の福音書は読んで涙が出たくらいいい話だと思った。とにかく真逆のような話が一冊で聖書と呼ばれているのには違和感を覚えた。

 今だから言えるが、旧約聖書はユダヤ教の歴史なのだから、日本人の自分には理解ができなくて当然だったと思う。ユダヤ教はユダヤ人の民族の宗教だが、キリスト教(新約聖書)や仏教、イスラム教は世界の人々を受け入れることができる普遍的宗教なのだ。これらの三大宗教は民族や地域と関係なく人々に広められた歴史がある。ただイスラム教徒の結婚は、相手がイスラムでない場合にユダヤ教と同じく、改宗または入信する必要があるので、かなり生活に制約を課す厳しめの宗教だ。

 

新約聖書の福音書とは

 新約聖書にはこの世のものとは思えないくらいの人格者、ナザレ出身のイエスが登場する。福音書は彼の弟子たちが話した内容を、後世の信者たちが文書にして保存した書物だ。聖書は世界一のベストセラーと言われている。発行部数は今でも増え続けている。とにかく、ストーリーを掻い摘んで言えば、イエスがユダヤ教の聖職者がいやがる内容を人々に教え始めたことが問題となり、彼らはイエスをイスラエルを支配するローマ帝国の反逆者に仕立て上げて、処刑までもっていくという話だ。頭が良くて、本当にいい人で、人気者で、素晴らしい教師であり、奇跡的な方法で病気を治す医者のような人が、神から預かったメッセージを教え広める。その教えは神の与えた真理であり、魂の救いであった。しかしすでに存在していたユダヤ教の掟には、人間の作り上げた掟が多く存在した。それは現在のキリスト教も同じである。富を求めての戦争や破壊的な経済活動を行っている西側の先進国の多くがキリスト教国だという事実がそれを語っている。

 

なぜ、人は神に逆らうのか

 人は神から与えられた教えをそのまま実行するのは難しい。現実的には都合が悪い。今までやってきたことを捨てたり、否定するなんてできない。じゃあ何で神を信仰するのか? 神から見放されるよりも、神も信じない者はそのコミュニティいられないと思うからだ。イエスは教えを完成させるために来た。彼の教えはかなり上級者向けの内容だ。しかし偽物がはびこっている以上、本物、つまり真理を見せつけるしかなかったのだ。だから奇跡も起きるし、民衆がついてくる。今での既得権益や生活を捨てられない人々にはイエスは破壊者に過ぎなかったのだ。反論しても勝ち目のない者たちは彼を葬り去った。しかしその後、彼らは国を失い、流浪の民となり世界に散っていった。彼らが国をつくって戻ってきたのは20世紀の大戦後だ。イエスは1世紀の人だ。

 イエスの話は過激で、「家族を敵対させる」とか、「この世に火を投げ込みに来た」と物騒である。イエスはこの世(社会)の矛盾を突いたのだ。なぜ人々が苦しんでいるか? 人間の作った社会の掟、ルールや常識とは、権力や物質的な損得に過ぎないということだ。 

 

戦争の絶えない世の中に「剣を持つものは、剣によって滅びる」の言葉がふさわしい。