東日本大震災から11年目を迎えます。

未だ行方不明となられている方々のご家族、原発により避難生活をされてる方々…

11年経過しても、まだ復興は続いてます。

11年前、私はシングルマザーとして、仙台市にある31階建てのビルに勤めており、その15階に居ました。今でも忘れる事が出来ない恐怖…ビルがグルグルと回っている様に感じ、体育座りすら出来ない状況でした。揺れている中、私は義理の姉に「かなり揺れてます、もしかするとビルが崩れるかもしれません、美璃をお願いします」と届くか分からないメールを送りました。揺れはおさまり、ビルは崩れる事もなく、非常階段から外へ出れる状態になりました。営業の男の子が「津波10メートルって言ってるんだけど」「そんな訳ないでしょ〜間違いじゃないの」そんな会話をしたのを覚えてます。内陸で被災した人々は大津波が来ている事を知りませんでした。16時に非常階段を降りてビルの外に出て、同僚と3人で歩いて家を目指しました。雪が降っていました。途中、亘理町が自宅だという女の子と話しながら歩きました。「親に電話してるけど出ないんですよね…」彼女の自宅は沿岸部…大津波が到来してるエリアでした…ふと、彼女のご家族は無事だったのだろうかと思い出します。4時間歩いて、寒くて疲れて、同僚とホームセンターの灯りを見つけ、一旦休む事にしました。その時、同僚の携帯が鳴り、ご主人と話す事が出来、同僚を迎えに来た車に私も一緒に乗せて頂き、娘の元へ地震発生から6時間後に帰れました。今でも、やっと娘と会えた時の感動を思い出します。震災から2年後、私は今の主人とお互い子連れ再婚をしました。家族が4人になりました。羽生選手がソチオリンピックで金メダル🥇を取った時、私は凄い、宮城県から金メダリストが2人‼️荒川静香さんと羽生結弦選手と2人もなんてと興奮したのを覚えてます。凱旋パレードを見に行きたかったのですが再婚したばかりで行く事は出来ませんでした。そして平昌オリンピックも羽生選手は金メダル🥇なんて凄い選手なんだろうとTVごしに見ていたのを思い出します。2019年9月…忘れる事が出来ない出来事、私にとっては震災と同じレベルの出来事…右乳癌の発覚…手術をして抗癌剤をして、生きる為に治療を頑張って…無我夢中の闘病生活…震災後に、まさか私が癌患者になるとは思ってませんでした。副作用に耐え、家族へ思う様に動かない身体のイライラをぶつけた日々…誇りを持ちながら頑張ってた医療事務の仕事…体力の限界を感じ大好きな仕事を辞めた事…

11年の間に沢山の出来事が起きました…私は震災当時から思う事があります。内陸部で被災した私は被災者と言ってはいけないんじゃないかと…私の家族は皆、怪我もなく生きてる…当時はちょっと


怖い思いをして、ちょっと不便になっただけ…津波に遭われた方々の恐怖や苦労に比べたらたいした事ではない…そう、ずっと思ってました。羽生選手が被災地の為にと、まだ27歳の青年が11年間も沢山の物を背負って被災地代表として競技をしてくれる…どれ程のプレッシャーや重圧があった事でしょう。北京オリンピックでの羽生選手の4Aへのチャレンジを見た時、再発の恐怖心が消えていくのが分かりました…私も被災地の人間として羽生選手から勇気や希望を貰っても良いですかと心の中で呟いていました。私の様なのを、北京落ちと言うそうです。長年、応援されてるファンの皆様へ本当に申し訳ない思いでおりますが、北京での羽生選手の4Aへのチャレンジに生きる希望を頂きました。私も羽生選手の応援の仲間入りをさせて頂けると嬉しいです。

羽生選手、夢や希望そして感動をありがとうございます。

羽生選手は、今までも、これからも宮城の輝けるスター選手です。右足の療養中なのに、oh バンデスへ震災の為にコメントして下さり、本当にありがとうございました。羽生選手のコメントが聞けて嬉しかったです。震災11年目、私は家族の為に、これからも生き続けていきます。