前回のブログでは「愛は与えること」という話題を中心に取り上げました。しかし、その前提には「十分与えられてきた」という経験が欠かせません。相田みつをさんの詩も、このことを表しているように思います。
過去無量の いのちのバトンを 受けついで いま ここに 自分の番を生きている
しかし、こうしたバトンを十分に受けついできたという感覚がなければ「相手に与えること=自分は失うこと」にしか感じられません。まだまだ自分自身がもっともっと与えて欲しくて、とてもではないけれど相手に与えられるような状態ではないとしたら。それはもう、「そうなんだ!」と気付き自覚することがはじめの一歩なのだと、私は考えます。
虐待報道で「まるで子どもが子どもを育てているようだった」というセリフを耳にすることがありますが、ここからは「赤ん坊を生んだ親なんだから、いつまでも親自身が子どもでいてはいけない」という批判的な意思が感じ取れます。これでは、ありのままのその人をただただ否定しているにすぎません。しかし、さまざまな事情で大人になりきれない、親になりきれない状態の親は事実存在しています。その人が「あるべき」親のフリを迫られて無理矢理に親的な振る舞いを強要されるせいで、痛ましい虐待事件が引き起こされている可能性はないでしょうか?
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