すべてのくるしみは、
《わたしは愛されてなどいない》
という勘違いから生まれる。
人々がキリストを十字架にかけたのは《我々は神から愛されてなどいない》という絶望が嫉妬に転じた末の衝動なんだろーなとわたしは感じる。
父よ、お許しください。彼らはわからないのです。じぶんたちがなにをしているのか…。
このキリストの言葉は、
『彼らはあなたに愛されていることをまだ知らぬ幼子なのです。その尊い事実に、いつかきっと彼らが気づきますように…』
という切なる祈りとして心に響く。
数千年の時をこえ、彼の愛がいま、地上にこだましている。
キリストは、わたしたちひとりひとりが愛と光そのものだという事実をずっと伝えようとしているんだ。
《わたしは愛されてなどいない》
その勘違いを解くためにかつて地上に降りたが、
磔の刑で生を閉じることとなり、
彼の死に責任を感じたやさしい人々は、自らに罪人のレッテルを貼ることで彼の無罪を清めようとした。
キリストは人々に愛を伝え残したが、結果的に、罪悪感という傷跡も人々に残した。
愛は、すべてをゆるす。
罪悪感は、自らを責めたてる。
このふたつは両立しないから、
それがいわゆる宗教の歪みなのだ。
あらゆる、宗教の。
わたしたち人類の集合意識のなかには、
《我々は罪人である》
という深い闇がある。
でも、その勘違いを、すべての宗教を突き抜けた先にある大いなる源、愛と光の源泉が、ずっとまばゆく照らし続けているんだ。
『あなたがたは罪人ではなく、我々と同じです』
それはまるで光のシャワーのように、昼となく夜となく常に、わたしたちに降り注がれている。
人々が罪人であることをやめたとき。
この世から戦争は消える。
『わたしは愛されている』
『わたしは愛であり光である』
その事実に満たされたとき。
わたしたちはすでに平和のなかにいる。