二元性のカラクリ
二元性
生きている以上、
二元性は
ついてまわる
二元性の世界から
脱出することは
肉体を
離れることを意味する
けれど
二元性の中で
生きるのか?
二元性を観察して
生きるのか?
それは
選択できる
波動が低かった頃
私は、
二元性の世界に
入り込んでいた
常に出来事を
ジャッジして
責任は
どこにあるのか?
誰が悪くて
誰が悪くないのか
どれが良くて
どれが良くないのか
どれが正解で
どれが不正解か
合格か不合格か
上か下か
ありかなしか
ジャッジは当たり前で
ジャッジしない生き方を
知らなかった
その生き方は
辛くて苦しい
そのものだった
波動が少しずつ
上がってきた頃
気づいた
二元性
それは、
同じ事象の
違う側面に
すぎないことに
そもそも
ジャッジする必要は
なかった
良いも
悪いもない
正解も
不正解もない
違う側面が
存在しているだけ
同じ山を見て
美しい山
素晴らしい山
険しい山
恐ろしい山
見る人の視点は
無限で
どれも正解だ
それを
ジャッジという方法で
綺麗な山だ!
いや、
恐ろしい山だ!!
人々を争わせ
分離させる
そんな
低波動の
分離ゲームに
参加していたことに
気づいた
二元性
苦しいものだと
思い込んでいた
けれど
今は、
すべてはひとつ
そこから見た
たくさんの視点があるだけ
その、
ひとつひとつの視点は
実は
尊いものだと
気づけた
みんな
違う視点を持っている
それは
同じものの
違う側面にすぎない
どれも正解なのだ