私の友人でも、
曖昧な関係や
交際をしていても相手から尊重してもらっているとは言えないような数名の男女がいる。
(根本的な問題は皆、類似しているように思う)
しかし、
私の友人たちは人柄が良いのでこれについて理的には清算できないのである。
(今回の離婚騒動でも助けてくれている)
こういった気持ちもよくわかる。
私も離婚する際に
娘の将来や今までの思い出・労力・時間などを考えると簡単に関係を清算することはできなかった。
これから自分のことを理解してくれる人と出会えるのかという不安と、
自分の歩んだ人生を説明する労力を考えるだけでしんどくなってくる。
歳を取るごとに自分のことを説明する内容は増えるし、
自分の求める人物像は高度化する。
そういった気持ちをわかるからこそ、
私は自分の大切な友人がどんどんリスクを背負わされていると思えば腹立たしく感じる。
無責任に自分の独占欲や承認欲を満たすため、人生の保険のために選択肢を奪うような真似は酷である。
先日のゴールデンボンバー鬼龍院翔の文春砲もこれと極めて似ているんだろう。
本人たちに言うと
「大きなお世話だ!」と怒られてしまうかもしれない。
だが許して欲しい。
自分がしんどい時に助けてくれた大切な人だからこそ心配なのだ。
私はどんな状況も認めて応援してあげるのも、
とことん心配してあげることも友人としての役割だと思っている。
話を友人Nに戻すが、
今日は友人Nに対してせっかく来てくれたので言葉を選びながら親密な友人の1人として心配している思いは伝えた。
彼も内心、同じように思っていたようで背中を押してくれてありがとうと言ってくれた。
離婚を経て、
人生を共に歩むパートナーには一抹の不安もあってはいけないと私は思うようになった。
何故なら、
共に過ごすというのは
健やかな時も病める時も助け合わなければいけないからだ。
パートナーには
自分の心の体重を目一杯に掛けられるくらい信用できないといけない。
結婚するパートナーとは、
最愛の人であり、仲間であり、友人であると思っている。
どのような一面も必要であるが最愛の人に求めるのはドキドキではなく安心感。
出産や子育て、老後などは仲間・友人としての役割が多くなるだろう。
不安は判断能力を鈍らせる。
ドキドキ感は不安の一種と思っていいだろう。
これが心を掌握されるきっかけになると私は思っている。
時間が経てば安心できないのが不安の種となる。
今日はそんなことを強く感じる日になった。
私は既に前向きに次の人生を見据えている。
離婚に関して思う所は多々あるが、
自分の伝え方が悪かった事・感情のコントロールが未熟であったことによって娘から仲の良い両親のいる家庭を奪ってしまったことに対する贖罪の意識が強く残る。
また元嫁には苦労を掛けてしまうことを申し訳なく思う。
父親の責任として、娘をしっかりと遠くからでも見守って助けてあげるために経営者として力を付けることを決めている。
次の相手には娘との関係さえ理解してくれれば何も求めはしない。
再婚しても娘に対する協力は惜しまないし、新しい家族も幸せにする。
男の意地にかけてやり切って見せる。