駅舎探索 北陸本線(旧柳瀬線) | outbackの旅日記

outbackの旅日記

日本中を気ままに旅する記録です。山の中の無人駅でビバークします。
タイトルが3代目になりました。レガシィ→ペケV→outback

9月27日(日)19日目。一日中船上でしたので何も特記する事は無く、ひたすらPCに向かっており、時々気分転換に風呂に入ったり、酒を飲んだりまったりと過ごしていました。波は高いと予報で言われていました。確かにうねりはありますが、揺れはほとんど感じられず、全く問題ありませんでした。私は過去、那覇から石垣島へバイクを載せてフェリーで行った事があります。今はもう廃止された航路ですが、それが過去最も揺れた経験ですね。台風が通過してすぐの乗船でした。船倉の方から常に大きな音が聞こえ(何かがぶつかるような音)トイレはいつも人が並んでいました。私は船酔いしないので、問題なく過ごしましたが、何かに掴まらないと歩くのは危険な状況でした。食堂のテーブルは床に固定されていました。食事も汁物はこぼれるのでダメで、ドンぶりものとか、スパゲッティ等しかありませんでした。最もほとんど食事をする客はいませんでしたが、、、船首の方を見ると甲板まで海水をかぶり、前が全て海になったかと思えば、すぐ全て空になるといった感じでした。

今回はそれに比べればベタ凪と言ってもいいくらい、安定していました。スタビライザーの技術がものすごく進歩したのだと思います。

 

定刻より2時間近く遅れて下船しました。その後コンビニで食料を仕入れて新疋田駅でビバークとなりました。

 

9月28日(月)20日目。最終日です。本日は帰宅する前に旧北陸本線を見てから帰ろうという計画です。以前敦賀―今庄の山中トンネルの杉津線の探索はしましたが、今回は敦賀ー木ノ本の柳瀬線跡を探索します。

現在の北陸本線はループ線も使って勾配を緩和して通過していますが、旧線の柳瀬線は柳瀬トンネルを頂点に延々25‰の勾配を登っていました。特に柳瀬トンネル内では、SLの排煙で窒息事故も起こり、輸送量も限定されるため、現在の新線に1957年に切り替えられました。杉津線と異なるのは旧線は廃止されずに1964年まで柳瀬線と言う支線で残りましたが、日本一の赤字線として問題になり廃線になりました。

 

前置きはこれ位にして早速探索です。疋田駅跡です。現在北陸本線に新疋田駅がありますが、その新と言うのは、柳瀬線の疋田駅があったからです。現在保育園になっていますが、運動場の土台の一部が、疋田駅のホームです。R8とR161が分岐する地点の少し北側、疋田郵便局のある辺りにあります。駅名標は最近有志の方々が再現したようです。

現在は廃線跡がr140になっています。R8がR161と別れて米原方面に少し進み、北陸自動車道に最も接近する地点から県道が分岐しています。柳瀬トンネル情報が掲示されています。高さ3.5m制限ですが、高さより幅が狭いので大型車は無理でしょうね。

 

最初に出てくるのは刀根トンネルです。しかしこれは鉄道時代の刀根トンネルと同じ場所にあるのですが、拡幅されて当時の面影は全くありません。丁度北陸道の刀根トンネルの上下線間に位置しています。

 

刀根トンネルに引き続いて現れたのは、小刀根トンネルです。県道からは外され、廃道になっています。トンネル自体は通り抜けることはできますが、その先は藪になっており行き止まりです。

 

 

廃道ですから中をじっくり確認することができました。敦賀側入り口は総レンガ造り、積み方は長手積み。途中から下は石積みで、褶曲部はレンガ積みになっています。やはり長手積みのようです。レンガの積み方は、杉津線に案内があって勉強しました。照明がなく真っ暗なんですが、車を突っ込んでハイビームにすると結構撮れるものです。

反対側出口です。刀根トンネルと一続きになっています。

 

柳瀬トンネルです。全長1352m信号機が設置されています。杉津線と同じですが、こちらの方が圧倒的に通行量が多いですね。信号の青信号のタイミングは非常に短くて、赤信号6分に対して青信号は10秒しかありません。つまり殆ど赤信号と言う事になります。トンネル通過は普通に走れば、2分もあれば充分に通り抜けられます。そう言う間隔にして安全を保っているものと思われます。何度か見送りましたが、6分間の間に車は4台くらい平均で溜まる感じでした。

一番最後にトンネルに進入する形で入りました。車を停めて外に出て、前車との距離を取ってからハイビームにして撮影して直ぐ車内に戻ります。ざっと1分位でしょうか?急いで出発して前車に追いつき出口では100m程度の差まで詰めて出ました。出口では3台ほど待っていました。先程の小刀根トンネルと構造は同じですね。石積みの上の褶曲部は長手積みです。長手積みはカーブを描くのが簡単だからでしょう。

反対側出口です。ここも高速の柳瀬トンネルと同じ場所にあります。北陸本線の開通に伴い日本海の荷物が下関周りの船便で3か月かかっていたものが、新潟から3日で大阪にやって来るようになり、物流が劇的に改善したと案内にはありました。

 

 

 

中之郷駅跡です。ホームしか残っていませんが、ここも地元有志による駅名標が、建てられています。ちょっとした公園になっており、隅の方には、よりリアルな駅名標が立てかけられていました。もうグニャリと曲がっています。ホームには欠き取り階段が残っており、往時をしのばせました。

 

柳瀬線は以上です。杉津線よりは距離も短く、トンネル以外はそんなに遺構は残っていませんが、敦賀の南北の旧北陸本線を探索した事になります。敦賀と言う港町は、東も南も険しい山に囲まれた港町だったことが理解できました。この後はようやく長い旅も終了となり帰宅しました。しばらく執筆活動を続けた後は、またふらりと出かけてしまいそうな気がします。名鉄築港線のダイヤモンドクロスは早々に時間を図って訪問します。