常平通宝考Part4 | outbackの旅日記

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日本中を気ままに旅する記録です。山の中の無人駅でビバークします。
タイトルが3代目になりました。レガシィ→ペケV→outback

長らく一文銭を中心に李氏朝鮮時代は流通していました。しかし日本がそうであったように欧米のアジア進出が本格化していきます。日本は島国であったことも幸いし、日本人の維新前後の志のある人々によって、植民地化をまぬがれ不平等な部分は多々あったにせよ独立国として、近代化の道を進む事が出来ました。しかし清は列強各国に好いように蹂躙され、それでも清王朝は怠惰をむさぼり、ついに孫文が立ち上がるまで無抵抗状態でした。朝鮮はと言うと、これがもっとひどい状態で、一部貴族が中国のまねをして、怠惰に過ごし経済等ほとんど顧みず、清頼みの国でした。その清がボロボロになってついには後ろ盾がなくなり、ロシアや富国強兵化した日本もしくは中華民国のどれかに守ってもらうべく行動していたのですが、結局日韓併合という道に進んだといことになります。なぜこのような事を書くのかと言うと、その国の状態が発行される貨幣に大きく影響されるからです。
1866年に百文銭を鋳造します。一文銭百枚分どころか十枚分程度の重量の代物を百枚分として流通させようとします。当然庶民は怒り、貨幣の信用が下がりインフレになります。しかし経済状況が悪化してくると、この手は朝鮮に限らずよく使われます。中国でも清時代の末期にはなんと千文銭が登場しました。一文銭を回収して少ない銅で高額の貨幣を作ってしまおうという発想です。日本でも奈良時代の12種の貨幣発行の時も新しく発行する貨幣は旧貨幣の十枚相当として流通させるという古文書が残されています。ですから貨幣を発行された順番に見ていますと、その国の経済状態が良くわかります。中国で貨幣という観点から見ますと、最も安定した経済が花を開いたのは、宋、明の時代、唐も安定した王朝でしたが、後半は前半に鋳造された開元通寶のレベルの高さに比較してがたっと質が落ちます。清も建国時は非常に安定していました。六代目乾隆帝の時代に最も繁栄し、この時現在民族問題になっている、ウイグル等の中央アジアまで勢力範囲を広げます。しかしそれをピークに下り始め、財産を使い果たした9代咸豊帝の時代に千文銭が鋳造されます。日本でいう明治維新直前です。当時清は列強各国が進出し、アヘンが蔓延し便利な場所は軒並みむさぼり取られボロボロでした。
朝鮮に話を戻しましょう。百文銭は庶民の反発を受けほとんど流通せず、すぐに回収されました。あまり流通しなかったにもかかわらず、市場価値は1000円程度です。なぜならほとんど手変りがなく面白みに欠けるからです。私も4枚程度しか持っていません。基本的に収集の対象からは外しています。
王朝は百文銭で失敗した事に懲りずに1883年(明治16年)五文銭を鋳造します。日清戦争の7年前です。この五文銭は先に鋳造された二文銭より粗悪な銭貨で、それを1文銭5枚分として流通させようとしたのです。経済状況が更にひっ迫したためです。百文銭よりはましでしたが、やはり庶民は反発し流通数はかなり少ないです。しかし新しい時代に発行されているので、一部を除き比較的残存数としては多いので市場価値は二文銭と同程度です。
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五文銭(當五)です。最も新しいのに粗雑な作りです。これで5枚分とはだれも納得できませんね。
 
その後常平通宝は製造中止になり、日本の貨幣技術を導入し穴のない貨幣を鋳造し始めます。ところで日本には本来常平通宝を輸入して流通させた事がないのです。中国銭に交じって少量は入っていましたが、正式に貨幣としては一度も流通していません。しかし現存数は、朝鮮半島よりも日本の方が多いと言われています。それは日韓併合時代、日本でもお寺の鐘を供出したように大量に金属原料として、日本国内に持ち込まれたからです。現在国内に存在しているものの多くは、その際溶解されるのを免れた残りになります。
 
取りあえず本日はここまでです。これで一応常平通宝の概略だけは書く事ができました。この後はここから派生する様々な話をぼつぼつ書いていきます。