昭和生まれの私は、ジェネレーションZと呼ばれる息子との価値観、世界観の違いを強く感じている。彼は紙で出版された本を読まない。読むとしても、それはkindleであって、文庫本ではない。図書館に行って調べ物をするということもない。わざわざ車を運転し、図書館に行かなくても、自宅のコンピューターでChatGPTに聞いたら良いのだから。

 

そういう私も、最後に図書館に行ったのはいつだったか?思いだせない。ど忘れした漢字や、思い出せない有名著名人の名前は、スマートフォンでチェックすれば10秒で答えが出る。何と便利な時代なんだろうと思う。

 

便利ではあるけれど、時にはその便利さが不便に感じるのはなぜなのだろう?デジタル時代にいて、時としてアナログ時代が懐かしくなるのはどうしてだろう?

 

今の時代に生きている私たちが知り得る一日の情報量は、100年前に生きていた人たちの一生分だそう。

 

頭に入って来る情報が膨大な時代、それを処理する能力、時間、見分ける力がなければ、簡単に洗脳されてしまう。ましてや、一定のグループや組織によってその情報が、 “誤情報”のレッテルを貼られてセンサーシップされ、国民の目、耳に届かなくされていたなら、人々は簡単に騙されてしまう。多数決で決まったことが正しいわけではない、と言う事に気づいている人は、今の時代、一体どれくらい、いるだろう。

 

友人たちと、喫茶店で、何時間も顔と顔を合わせて話し、それでも話し足りなくて、帰宅後は親の顔色を伺いながら、家の固定電話で長電話した昭和のあの頃。不便さをあまり感じなかったのは、程よい情報量で毎日生きていたからなのかも。。。