わたしの意志ではなく、おお主よ、あなたの
御意(みこころ)が、わたしの内に、わたしを通して行われますように。
わたしがさまざまな形で接するすべての人に対して
わたしを今日、いま、祝福の水路としてください。
わたしが(心の奥深くに)入るときも、(そこから)
出るときも、いつもあなたがわたしに望まれるものと
調和していますように。あなたが呼ばれるとき、私は答えます。
「わたしはここにおります。どうかわたしを遣わし
私を用いてください」(262-3)
*ちなみに上記のアファメーションは私には少し長すぎるので、私自身は、下記を使っています。
『私の意志ではなく、あなたの御心が、わたしの内に、わたしを通して行われますように。
普通に暮らしていると、ああしたい、こうしたい、私が、私が・・・といった自己主張や欲がつい出てきてしまいます。が、そういったこといったん脇におき、自分を神の手足として差し出す、あるいはそうであることを前提に生きてみる。
『他の人を助ける者となり、慰める者となり、救う者となろうと努める・・・』281-23
神様は目の前に困っている人がいても直接は手を出せません。そんな場合、おそらく神様は誰か人を遣わせて助けようとされるんじゃないかなと思います。
例えば、盲腸患者を助けたくても神様は直接手術ができないので、その人に良い医師を遣わすでしょうし、喉が渇いている人に神様は水を差しだすことはできないので、誰か人に水を運んできてもらうでしょう。困っている人、絶望にいる人には、じっくり話を聞いてくれたり、直接のサポートをしてくれる人が必要になります。
もちろん私たち全員が医師やセラピストではないので、できることには限りがありますが、日々の生活の中で周りの人にとっての神の遣い手になる。どうか私を使って下さいと神に願い、そう日々を生きるわけです。
『祝福の水路』と書くと何か特別なことをしようと身構えてしまいがちです。東北の支援に行ったほうがいいんじゃないかとか、ホームレスの人のための炊き出しに行かなければいけないとか。
もちろん、それが出来るならしてもいいでしょうが、まずは、今、自分がいる場所、今いる環境で、目のまえにいる人、ご縁のあった方に自分ができることを少しずつ行っていく。そうすれば自然に次なる道が示されてくるとケイシーは述べています。
『魂が、実体が、同胞への祝福の水路にならんことを求めるにつれて、一歩一歩導きが与えられる。自分で正しいと思うこと、正しい関係と思うことを実行するならば、その者は成長する能力を日々に得る。なぜなら、霊的法則の知識が自分の精神活動に活かされるにつれて、真理は成長するものとなる。 日々に道が示される。
途中でくじける者にはその道は見出せない。 それ故、(人生において)変えるべき唯一のものは、同胞への祝福の水路にならんがために《無限なる神》の力に用いられることを、自己の内においてさらに確固として決意することだけである』423-2












