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やっくんのブログ

姪と甥、スキー、マリンスポーツ、@4d_50c、ミュージカル、演劇鑑賞!ダンスミュージック!池上彰、宮城谷昌光・北方謙三/、高杉晋作、土方歳三
座右の銘…和して同ぜず・敬天愛
キングダム、NCIS、ナイトシフト、レナードの朝、カサブランカ」

おはようwとつぶやく前に、歯をみがきましょう😃😃😃
今週も素敵な一週間になりますように(♥Ü♥)

桜の季節に降る雨を「桜雨」と言うんですよね!?
雨に濡れるのも気持ち良いもんですよ😁😁😁

#日本 #京都 #鷹ヶ峰 #太夫 #花供養  #歴史 #名所 #日本文化 #寺 #日蓮宗

京都の北「鷹ヶ峰」にたたずむ寂光山『常照寺』ここは『吉野太夫』ゆかりの地としても知られています。
元和二年(1616年)日蓮宗中興の祖と言われる「日顕上人(にちけんしょうにん、にっけんしょうにん)」が「本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)」から土地の寄進を受けて開いた寺です。

吉野太夫が二十三歳の時に「朱塗りの山門」を寄進しました。この門は『吉野門』として今に残っています。

〝 都をバ
花なき里に
            なしにけり
    吉野は
            死出も
   山にうつして〟
吉野太夫が世を去ったとき、夫の紹益(じょうえき)は涙ながらに吉野を荼毘に付し詩を詠んだと伝えられています。

散り遅れた桜が吹き抜ける風に花びらを散らす四月の第三日曜日は『吉野太夫花供養』が行われる日...京都洛北の鷹ヶ峰界隈は華やかな雰囲気に包まれます。





かの井原西鶴が「亡き後まで名を残せし太夫 前代未聞の遊女なり」と絶賛した後の「島原」当時の「六条見筋町」の太夫二代目『吉野』を偲ぶ催しです。

吉野太夫は「和歌(わか)」や「連歌(れんが)」「俳諧(はいかい)」は勿論「琴」「琵琶」「笙(しょう)」をよくし「書」「茶の湯」に至るまで諸芸は全て達人の域にあり、その名声は遠く海外にまで聞こえたと言われています。芸妓として最高の位に昇りながらも一人の女性としては心ばえの美しい情の厚い女性だったんでしょう。三十八歳という若さで世を去った後も人々の心の中に生き続けた彼女の逸話は優雅な島原文化の名残りと共に現在に語り継がれています


『花供養』は島原太夫が往時のきらびやかな打ち掛け姿で少女の「禿(かむろ)」や「傘持ち」を従えて静勝寺までの道をゆっくりと練り歩く島原太夫道中で幕があきます。
独特の足の運びは『内八文字(うちはちもんじ)』と呼ばれています。

命日の八月ではなく供養は爛漫と咲き儚く散った彼女の生き様を桜になぞらえ花の盛りの四月に行うのだとか…島原「花扇太夫」による献茶「如月太夫」による奉納舞など。

太平の世の華やいだ日々芸妓としての最高位を極めながら一人の女性として信仰と夫への愛を求めて一筋に生きた吉野太夫...その鮮やかな衣装は花吹雪を舞い上げる一陣の風に似て私たちの心に爽やかな印象を遺してくれました。


島原妓女の最高位『太夫』は嘗ては帝に謁見を許された「小五位」にあり、その格式は「十万石の大名」に匹敵しました。当時「六条見筋町」は名だたる茶人や文人、大名、公家などが集まる雅な宮廷文化の流れを汲んだサロンでした!このサロンを取り仕切る太夫ともなれば「容姿端麗」「教養豊か」である事は勿論、諸芸に長けて尚優れたひととなりを求められました。当時「太夫」にまでなれたのは千人の内三人から五人とも言われる程の狭き門...十四歳で「太夫」に上り詰めた『吉野』は「寛永三名妓」あるいは「天下随一」「稀代の太夫」とうたわれました!


吉野の生涯描いた演目『桜しぐれ』を演じた縁で十三世「片岡仁左衛門」らが建立した供養塔『比翼塚』も境内にあります。