母が12月4日に永眠いたしました。
63歳でした。

2012年頃から咳をするようになり、病院を転々として、2014年に間質性肺炎と診断されました。
癌と違ってステージいくつとは言えず、急性増悪であっという間という話も聞いていた中、ここまで緩やかな悪化でくることが出来て、母も「病気だけど病人にはならない!」と、鍼灸師の仕事も続け、その間に私は二人子どもを産めて、母に孫のお世話もしてもらい、母と一緒に出かけたり、みんなで箱根に旅行へ行ったり、楽しい時間を過ごせました。

2018年に在宅酸素療法を導入し、徐々に酸素流量はあがっていきました。
今年の3月に細菌性肺炎を併発し、4月に退院出来たものの、階段の上り下りや身の回りの家事が出来なくなったので、私たちの家で母と同居することになりました。

そこからの3ヶ月は、穏やかで落ち着いた日々でした。
同居ならでは、というか、母親がいるという煩わしさもあったけれど、今となればそれも懐かしく、親の前で子どもでいられた最後の時間だったのだなと思います。


それからのことはブログでもつらつら書いていましたが、ついにその時がきました。


12月2日の朝、呼吸が苦しいから救急車を呼んでほしいと言われ、緊急搬送されました。
119番押すのってどきどきしますね。すぐにきてくれました。タイミングよく、夫が家にいたので、娘といてもらい、私が付き添いました。

母が検査室にいる間に主治医から話があると呼ばれました。
肺は壊滅状態なので治療ではなく、鎮静剤による緩和措置をとる方向で、本人もそれで良いといっていると説明されました。

母の伝言通りの流れになりました。
つまり、もう手の施しようがないと。
「今すぐに急死することも覚悟してほしい」と。
母の前では泣かないようにしていたけれど、診察室を出て待合室で泣きました。
入院の手続きにきた看護師さんへの返事に声が出せなくて、首をふることしか出来ませんでした。

手続きの最中に祖母がきてくれました。(救急車できた段階で祖母と父に電話した)
人がいるだけで安心して、涙もとまりました。

病室に案内された時、見た目には安定していました。母は祖母に昨晩、次の日にすき焼きが食べたいと言っていたので、祖母が持ってこようかというと、手をふる母。食欲もなかったようでした。
私は朝から何も食べていなかったので、一度家に戻ることにしました。
すると、その間に容態悪化の連絡が入り、大雨の中、急いで病室へ行くと、母は鎮静剤で安定していました。
ちょうどその時、病室の窓から大きな虹が見えて、ドラマだったらこれ渡ってしまうと思えるくらい綺麗でした。
祖母と父がきましたが、鎮静剤で眠ったまま。

でもその夜、鎮静剤が切れて、母は目を覚ましました。
「今何時?」
「18:50頃だよ」
「私、今日泊まるから」
「なんで?」
「だって一泊200円なんだって!2000円なら考えたけどさ(笑)」

本当のこと、言えないじゃない。
口にしたら、泣いちゃうじゃない。

そしたら、上の弟もお見舞いにきたので、自分の夕飯を買いにいきました。戻ると、「ママが白玉とわらび餅とゼリーが食べたいんだって」と言われましたが、残念ながら私が買ったのは杏仁豆腐。
弟が買いに行き、その間、母に私の買ったパリパリサラダ食べる?ときくと、食べると。
リクエストのもの、白玉一つ、わらび餅一つの半分を口にして、母はとても満足そうに笑っていました。

上の弟が帰宅後、消灯まで時間があったので、母と話をしました。
「よく眠れた~」
「(鎮静剤効いてる間のこと)何か覚えてる?」
「なんにも。」
「身体中痛かったのがなくなっているよ、すごいね。」

虹の写真を見せたら、「きれいね」
気になっていたダイヤモンド葬の話をしたら、「(骨だから)気持ち悪くなければ、なんでもいいよ」

そんな話を一時間ゆっくりとして、消灯前に「お薬うってください」と母。
鎮静剤が効きはじめる前に「おやすみ」と言い合いました。

それが母とちゃんと出来た最後の会話になりました。

それからはほぼ鎮静剤で意識のない状態。
SpO2(酸素飽和度)は安定しているのに苦しそうにしていることがあり、だんだんと効きが悪くなっているように感じました。
母の前では泣かないと決めていたけれど、母と2人で病室にいるときは、母の背中をさすりながら、涙がとまらなかったです。

4日は、午前中に鎮静剤が効いている時でしたが一度会えました。
この日は娘の幼稚園プレがあり、悩んだけれど、親のクリスマス会の練習もあったので、途中から幼稚園へいきました。近くだから、何かあれば病室まで走って10分以内につくやと。
プレが終わると、携帯に危篤の電話。
走ったけれど、病室に入った瞬間に聞こえたのは心拍停止のアラーム音と祖母と親戚のおばさんが母をよぶ声。
ほんの3分。間に合わなかった。

でも、まだ温かいうちに触れることが出来ました。

母の希望で、葬儀はせず、アルビノの遺伝子検査でお世話になった慶應義塾大学医学部解剖学教室へ献体しました。(生前、遺伝子の先生と「私の肺、欲しいでしょ?」「欲しい」という会話をしていた母…!)
家族や親戚がそろうまで病室を使わせてもらえて、献体の場合、看護師は最低限のエンゼルケアしか出来ないとのことで、母の顔が真っ白なままだったので、せめて少しだけと私が死化粧をしました。
18時に慶應からお迎えがきて、母とはお別れ。
次の日にはみんないつも通りの生活に。

当日は気持ちがついていかなくて、泣けなかったけれど、そこから数日は、夫が作ってくれたフレンチトーストから母を思い出しては泣き、歯磨きしながら母の歯ブラシを見ては泣き、なかなか落ち着けませんでした。
時間がたった今、未だに母が入院しているだけのような気持ちになることもあります。

不思議だけれど、こうして私が今年母の身の回りのことが出来たのも、たまたま昨年実家の近くの中古戸建てに引っ越すことが出来て、売主さんが屋内をバリアフリー化していたから母も使うことが出来て、私は今年も専業主婦していられたから色々対応しやすくて、最後の入院の前の日に夫が休暇に入れたから私は病院に泊まれたし、4日は水曜日だから仕事休みの家族が多くてすぐに集まれたし、色々な巡り合わせがあったような気がしています。
(色々あったけれど、夫にはたくさん支えてもらって感謝しています。)

思っていたより母の存在は大きく、私は母が大好きだったのだなと感じています。