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花師論

まるっきり今までの生活を捨てて、ひっそりと身を隠して起死回生をボ~っと見つめるただのおっさん。
世間では「報われない人」と笑われ、「前に出るな」と罵られながらも、いつも笑顔で暮らしている。
さてさて、この先どこまで行くのやら?

芸人は山の頂上にいる者同士としてしか喋り合わない。と、昔放送されていた"松本紳助"から出版された「哲学」に、松本人志さんの興味深い文章を見つけたので紹介したい。

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この本の中ではあくまでも「芸人」から見た観点から語られ、「笑い」や「芸人」という部分を世間に当てはめると、色々なモノが見えて来る。

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この、世界(芸人)とか世界観というものを、僕は『山』という言葉で表現したい。

芸人というものは、みんなそれぞれの山を持っていて、そのてっぺんに君臨している。

芸人は、負けん気が強いわけじゃなく、ものすごく恐がりなのだ。

てっぺんにいないと不安でたまらないから、自分の山を作って、その頂上に立って守ろうとする。

芸人はそれぞれ違う山の頂上にいる者同士としてしか喋り合わない。

自分の山を降りて、人の山に登るなんてことは絶対にしないし、反対に誰かを自分の山に登らせようともしない。

そういうことがわかってる人、別な言葉でいえば山が見えて、ちゃんと自分の山を見つけられた人が、芸人として残っていくのだと僕は思う。

芸人は自分の山をわざわざ降りて、ほかの芸人の山に登って行こうとはしない。

万が一登ってしまっても、絶対に勝てるわけがない。と言う。

芸人になった瞬間に、自分の山を見つけて、「お前ら、早く俺らが山の上に立ってることに気づけよ」と思っていたそうだ。


天才 松本人志さんと、自分も同じだ!とは口が裂けても言えないが、同じような感覚でいつも世間を見渡している。

それはバンドを始めた頃も、監督をやり始めた瞬間から感じていた。

それを証明するために、当時からブログという手段を使って、自分自身の考え方や目指し方の違いを配信しながら、松本さんと同じように「早くてっぺんに立ってる自分に気づいてくれよ」と思っていた。

だからなのか?互いに山を持つ者や、これから山を持たなければと思う者と出会うと、途方もない時間を喋り続け、ついつい熱くなってしまう。それは同じ感覚を持つ人との出会いに興奮するのだ。が、その反対に山を持たない人とは会話が成り立たなかった。

山を持つ者は、そのシンパシーを感じて地方から"密航"して来たのも、今となっては頷ける。

バンドでも同じことで、互いに山を持つ者同士だと同じで、同じ"板"の上に立つ者同士となると、ライバルを越えた何かを感じ合い、素直に話しを聞き入れられる。

シンパシーを感じる者同士は、会話がより深く広がり、瞬く間にヒントとなり、瞬く間に結果を出して行く。

山を持たない人が聞くと何のことか?チンプンカンプンで理解出来ないが、山を持った瞬間から今までが嘘の様に視野が広がって来る。

まずは自分自身の「山とは何か?」を考えた方がいい。

そこでまたチンプンカンプンになるなら、まだ自分の山を持つコトは早いと判断出来る。

松本さんはダウンタウンの山と松本人志の山を2つ持っているという。

その2つの山はどちらもてっぺんに本人が君臨していて、あちらこちらに笑いを発信している。

自分もそれはそれは低い山ではあるが、そのてっぺんに君臨し続け、1つの結果を出し今もまだ配信し続け、新たな配信方法でやりたい事の多さに元気が湧く。

芸人さんだけでなく、それぞれのジャンルの人達も山を持ち、山の頂上で「見つけてくれ」と配信しているのだが、山を持つ人との出会いは思っている程多くはない。


大和魂が大阪で常勝チームとして戦えたのも、キャリアだけが積み重ねられた文化祭楽団も、戦う為にいち早く山を持って、独自の理論で様々な角度からモノを見、研究を重ねた結果、普通では味わえない世界で戦えている。

それはダウンタウンが紳助竜介の漫才のコピーから、独自の理論で新しいカタチを作ったように、それはこれこらも永遠に続くやり方であり、より磨きをかけていく課題でもある。

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何かを目指す時、明確に前を走る人の背中が見えれば、それを追いかけ、追い越す為に必要となって来るのが山である事に気づく。

そうすると自然と、同じ山を持つ同士と出会い、さらなる刺激を受けて研究を重ねる。

そんなことを繰り返し、夢中に山のてっぺんで研究を繰り返すことが、幸せでたまらない。

ライバルでありながら、先輩後輩でありながら、同じ山を持つ者同士と出会う喜びは、言葉では言い表せれない。



人にはそれぞれの器がある。

その器の大きさを越えると、不安や恐怖が溢れ出る。

例えばお金が欲しくて仕事をすると、思った以上にお金が入って来ると不安になる。

誰かに騙されやしないか?

このままでいれるのか?など、不安は闇を作り恐怖を生む。

人の器はジッとしていても大きくならず、努力次第でいくらでも大きく深く広げる事が出来る。

それはチームや組織作りや、人間関係も同じである。

決算を前に今以上の器を欲して、無闇矢鱈と手を出すと、大事な場面でミスを犯してしまう。

器の大きさを過信していると、これまた大きなミスを生む。

器を欲してするには、当たり前の事だがボチボチと積み重ねるのが一番である。

大きなミッションや試合の前に、ジタバタする気持ちを抑えて、改めて歩いて来た道を振り返り、基本に戻って積み重ね直すと、意外と忘れていた事を思い出す。

ボクサーが最後に繰り出すパンチは、基本中の基本の"ジャブ"だそうだ。

ジムの扉開け、初めて覚えるパンチが"ジャブ"。あの名作「あしたのジョー」も、少年院の矢吹丈に丹下段平が手紙で教えた『明日のためのその一』も"ジャブ"であった。

その手紙を一度は破り捨てジョーは、慌てて手紙をツギハギをひらい集めて貪り読み、無心に"ジャブ"を空に向かって"ねじり込む様に打つ"

念仏を唱えるようにジョーは何度も何度も「やや、ねらいえぐり込むようにして打つべし」と繰り返し空を切る。

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その結果が力石徹との伝説に残る一戦へと繋がって行く

力石との激戦で出た右ストレートからのクロスカウンターを合わせられ、力石に苦杯を飲まされたジョーではあるが、初めて現れたライバルに心を鷲掴みにされ、暮れても暮れても"ジャブ"を放つ。

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今さら新しいモノに手を出しても、身につけようとしても、結果は決していい方向に転がる事はない。

今まで積み重ねて来た"ジャブ"を、決戦の日まで積み重ね打ち続ける事が出来た者だけが、栄光を手にする事が許される。


すべてが終わってみれば、比べるまでもなく大きく深い器となっているだろう。


あしたのためのその一を打て!

115日も過ぎ、今年の福男も決まり、大一番に向けて初詣で手を合わせ、お賽銭箱に願いを込めたのではないか?

それとも初詣にチームで会社で恒例行事として鳥居をくぐったのか?

それを否定するわけではない。


無名だったヴァンダレイ・シウバが腕っ節一つで上りつめ、桜庭和志を叩きのめし頂点を掴んだインタビューで、「おれがここまで来たのは神の力ではない。努力を重ねて来たおれの力がここまで結果を出した。それは神を信じる思いが、おれを強くさせた。」と、雑誌Numberで語っていた。

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剣豪 宮本武蔵が、吉岡道場に独りで立ち向かう一本松の別れ道、小さなお地蔵さんの前を通りすぎる。

足を止め、振り返り、引き戻して、手を合わせようかと考えその思いを断ち切り、この言葉と共に歩を進めた。


『我、神仏を尊びて、神仏を頼らず』


五輪書の冒頭に「時に寛永二十年十月上旬の比、九州肥後地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十」と残している。


『神仏を敬い、神仏に頼らず』


という独行道の無神論を押し出しているが、むやみに神頼みをするのではなく、何事も自分の力を信じる。ということである。


さらに武蔵は、我々を勝利へと導くヒントを残してくれている。


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『平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること』


決戦に姿を現わす"緊張"は、普段の練習不足を示している。

練習通りに戦うためには、何度も何度も繰り返し身につけるまでやり込み、絶対に揺るぎない心を養う。

自分だけが強い想いだけでなく、チームなら指導者、保護者、選手と三位一体とさせて突き進む。

勝負は時の運。

運さえも味方につけ、高みを目指し勝ち取るためには、どんな結果が生まれても、強い心で挑んでほしい。


『われ事において後悔せず』


この言葉を胸に