子供のころに読んだ漫画でトラウマになった作品があった。

 

「家族を人質に取られた人が利用され、最後は悪い奴に殺される」というもので、その死に方が「秘孔を突かれて、全身が骨になって絶命する」ものだった。

 

たぶん、床屋の待ち時間で読んだのだと思う。

 

当時8-9才で、現実と漫画の違いがわかっておらず、いきなりショッキングな絵を見せられて眠れなかった。

 

40才になった今、ふと、あの漫画はなんだったんだろう?と思い調べることにした。

 

5chのタイトルを教えてくれるスレで質問をしたら、すぐに答えてくれた。とても助かる。

 

その作品は宮下あきら先生の「瑪羅門の家族(バラモンのかぞく)」だった。

 

wikipediaをみるとそれらしいキャラクターが出ていたのでさっそく購入(一度ブックオフを見て回ったがなかったのでkindle版)。

 

読んでみるとタイトルにあるように「あまりの記憶違いに驚いた」。

 

陣 霊峰(チン レイホウ)という悪役がいて、「秘孔を突かれると骨になって死ぬ」は合っていたが、その背景はまったく違う。

 

まず、「全身が骨になって殺されたキャラは陣 霊峰の部下」。この恥さらしが!みたいなノリで殺される。

 

「家族を人質に」の件は、「あとで出てくる違うキャラに兄が操られて殺される」もので、骨になる話とは関係がなかった。

 

決着方法は、「主人公のチャクラが上回ったために、陣 霊峰の腕が骨になる」というものだったが、記憶の中では、「主人公が頭突きをして相手の指をへし折ってから骨になる」となっていた。

 

なんとなく合ってるけど、ほとんど違う。

 

もしかしたら記憶とはそういうものなのかもしれないな……と強く感じた。

 

子供の頃に読んで眠れない日があったが、今読むとそれほどでもない(内容は面白い)。

 

自分を振り返ることでトラウマがひとつ消えた。なんだか良い一日になった気がする。

「仕組まれている」と感じることがある。

 

なけなしのお金でパチンコをやって、最後の最後に激熱リーチがきて外れたり

 

連続で赤信号に捕まったり

 

たまたま入ったお店で親が子供を怒鳴りつけていたり

 

どうにも納得ができないことが起きる。そしてそういう時は大体が続いてくる。泣きっ面に蜂状態。

 

スピリチュアル的に言えば、ハイヤーセルフ(大いなる意思)からのメッセージかもしれないが、すでにネガティブモードになっている私からしたら苦しいの一言。

 

調子が良ければ、間が悪かったな……で済むが、いまはそうならない。

 

今日も、よし気分転換をしよう!と、パフェを食べに行ったが売り切れ。胸がざわざわしてキューとなる。

 

帰り道にあるイメージが湧いてきた。

 

それは、頭の上のほうに神様がいて、その神様は私が苦しんでいるのを見て、ニタニタと笑っている。というもの。

 

神様は落とし穴を掘って、私を落とそうとしている。私は巡り巡って落とし穴にすっぽりとハマる。

 

それを見て、神様は、ほらみたことか!なんて馬鹿なんだ!と大笑い。

 

私は、馬鹿にするな!と怒っている。

 

文章にしてみると、おかしな話だ。

 

おそらく、この神様、私にとって悪い神様は、やはり自分自身なのだろう。

 

自分で穴を掘り、自分で落ち、自分が笑い、自分が怒る。

 

すべて私の中で起きていることで、外側に悪い神様がいて、いろいろと仕組んでいる、ということはないはずだ。

 

結局のところ、自分で自分を傷ついている。いまのところ頭では理解しているが、体が納得していない。心が納得していない。

 

いつの日か、あぁこういうことだったのか!という天啓がくるのを信じて、前を向いていたい。

 

ただ、いまは立ち上がるの難しい……

昭和生まれの40才、努力や根性を良しとした時代に生きてきた。

 

結論から言うと、人生に努力や根性は必要ない。

 

好きなことをしているときは、そもそも努力だとは思わない。他人から見たらものすごい努力に見えることでも、自分にとっては楽しくてやっている、なんてことは沢山ある。

 

やりたくないことをやらされているときに、努力や根性という言葉がでてくる。

 

他人や世の中が、私をコントロールしようとしたときにでてくる言葉。都合の良いように、うまく利用するようなときに。

 

とにかく私は努力や根性という言葉が嫌いだ。

 

そして、とてつもなく恐怖を感じている。

 

心の底から努力や根性を嫌っているのに、他人に押し付けたくなっている。

 

昔、根性がないと怒られたことに対して、ものすごく怒っている。とても悲しんでいる。

 

子供の頃、努力不足だと言われたことを根に持っている。

 

いま、その人たちのところへ行って文句を言いたい。

 

おそらく70代80代で体はろくに動かず、何もできなくなっている人たちに「根性が足りないんじゃないですか?」と言いたい。「体が動かないのは努力不足ですね。もっと頑張ってください」と言ってやりたい。

 

やられたことをやり返したい、と思う一方で、嫌いな言葉を使いたくないとも思う。

 

そんな自分に気づいたときに、「あぁ~いろんなことを手放せてないなぁ~」と感じた。

 

昔を引きずっているし、結局のところ、努力や根性という言葉に縛られている。

 

この先どうなるかわからないが、いつの日か全部許せる日がくると信じて生きている。

前回のブログに、私は私だけの答え、真実、真理を強く求めている、と書いた。

 

そのことが頭に残っているのか、ここ数日、同じことを考え続けている。

 

私は答えが知りたい。特にネガティブ、嫌な、不快な出来事について、考え込んでしまう。

 

「どうしてこうなったのか」は、「いま、このタイミングでこうなった意味」を知りたいということ。

 

例えば、急いでいるときに限ってトラブルが起きる。赤信号につかまる、電車が遅れる、雨が降ってくるなど。

 

電車の話で、急病人の介護で遅れるのは納得ができる、が「なぜこのタイミングで遅れるのか」について納得ができない。

 

雨が降るのも、科学的な仕組みは理解できる、が「いま、降っている意味」は理解できない。

 

神の試練(大げさ)かもしれないが、それによって何を得るのかもわからない。

 

文章にしてみると、「どうやってもわからない」ことで悩んでいるのがわかる。

 

そしてこれらが全て過去のこと。過去に意味を求めている。この行為に意味があるのか。

 

答えを知りたがっている一方で、もし、過去は終わったことだから、と答えを諦め(明らめ)たらどうなるのか。

 

いま、とてつもなく揺れている。

最近、バシャールの動画を見ている。大雑把に説明すると、バシャールとは宇宙人であり、高次元の存在であり、いろいろ教えてくれる存在である。

 

バシャールは「エゴとはダイビングマスクであり、視界をスッキリさせるためのものである」と言っている。現実世界を体験するため「だけ」にある。

 

また大雑把に説明すると魂(ハイヤーセルフ)が見たいものを見るためにエゴが存在している。魂はエゴを通してしか現実世界を見ることができない。

 

宇宙人がどうとかはわからないが、初めて聞いたときは衝撃を受けた。

 

私はついついエゴに答えを求めてしまう。頭で考えて答えを出そうとする。

 

私は私だけの答え、真実、真理を強く求めている。できれば今すぐに知りたい。そうすると自分の頭だけで考えてしまう。

 

これがけっこうくせ者で。あーだこーだ考えた結果、一生懸命に考えた結果、だした答えに納得がいっていない。

 

例えば、誰かに嫌なことを言われたとき、いろいろ考えて答えを出そうとする。

 

「あの人はそういう人だから仕方ない」「あの人にも事情がある」「機嫌が悪かったのかな」「ひどいことを言うなんて許せない」「私が何かしてしまったのか」

 

最後、よしわかったぞ!とスッキリすれば良いのだが、実際はいつまで経っても答えがでない。ずっと引きずってイライラすることがある。

 

つまり、私のエゴ、脳、思考の中に答えはない。

 

未来のこと、過去のこと、どうしてこうなるのか、どうしてこうなったのかは、どれだけ考えても答えがでない。

 

だからバシャールはエゴを鎮めて、ハイヤーセルフに委ねなさいと言ってるのだ。

 

ここまでは論理的で理解できる。

 

で、ここからがめんどくさくて、それでも私は答えが知りたいのだ!となってしまう。

 

頭では理解している、答えがでないものをずっと考えても仕方がない、と。そしてまたグルグルと考えている。

 

このループから抜けただしたとき、自分の中に答えはないと心で理解したときに、道が開けるはずだ。

 

そう信じて生きている。

25年前の話なのに、いまだに根に持っている話がある。

 

中学生の私は、モーニング娘。を聞いていた。

 

「LOVEマシーン」を初めて聞いたときは心底驚いた。

 

あかるぅぃ↑みらいに!就職希望だっわ~↑Wow×3

にっぽんのみらいはWow×4

 

なんだかわからないけどすごい曲だ。当時の後藤真希が13才なのもすごい。そこからしばらくモーニング娘。のCDを買っていた。

 

それは「ハッピーサマーウェディング」のときに起きた。

 

当時、塾の講師をしていた父親が、そのCDを見つけ、生徒の前で私のことを馬鹿にしたのだ。

 

「男のくせにこんなもの聞いてる」と笑いものにした。まともな父親ではない。良く言えば昭和の九州男児、悪く言えば馬鹿。

 

とても嫌な気分になったのを覚えている。

 

馬鹿にされたことをずっと根に持っていたのだが、「何が嫌だったのか?」を冷静に考えると面白いことに気がついた。

 

まず、父親が馬鹿なのは子供ながらショックが大きい。これは当たり前の話だろう。

 

私が気がついたのは、「好きなものを馬鹿にされたこと」ではなく、「好きだと決めつけられたこと」が嫌だった、ということ。

 

父親が私の好きを勝手に決めつけたこと、がたまらなく嫌だった。

 

私はモーニング娘。が好きだったしすごいと思っていた。しかし、熱狂的か?と聞かれるとそうではない。100点満点中70点くらいの好きだろう。

 

それに対して、父親は100点の好きだと思っていた。

 

この30点の差。父親との認識のズレ、わかってくれていないことへの不満。

 

私は父親に寸分たがわず理解してほしいのだ。

 

このことに気がついたら心が軽くなった。いまはそこまで恨んでいないような気がする。

 

ちなみに父親は晩年、AKBにドはまりしていた。その厚顔無恥には眩暈がするが……

負けてミジメな思いをした。

 

「勝負に負けた、誰かに負けた、失敗した、ダメだった、うまくいかなかった」 から 

「ミジメ、悲しい、悔しい、嫌な気持ち」 になった。

 

原因があって結果がある。文章にすると間違っていない。

 

しかし、アドラー心理学では、結果(目的)が先にあると言われている。

 

「負けたからミジメな気持ちになった」のではなく、「ミジメな気持ちになりたいから負けた」ということ。

 

引き寄せの法則でも、無意識で感じたことが現実になると言われている。

 

私はアドラー心理学や引き寄せの法則が正しいと思っている。なぜなら、負けたけど楽しかった、負けたのは残念だけど次に繋がる、など前向きに考えることもできるからだ。

 

後ろ向きに考えるのは、ネガティブな感情を味わいたいから。ミジメを感じている、感じたいから、そういった出来事が起きてしまう。

 

ではなぜ、ネガティブな感情を味わいたいのか、ミジメな気持ちがベースなのか。

 

それは無意識が「私は罪人です」と考えているから。「幸せになる価値がない」「苦しまなければならない」と感じている。

 

苦しんで、努力して、がんばることで許しを得たい。こんだけ苦しんだからもういいでしょう…というところまで行ってようやく前向きになれる。

 

最初から前向きでもいいはずなのに。

 

無意識で「苦しまなければ」と感じ、勝手に負けるほうへ進み、その結果苦しむ。話としてはものすごくシンプル。

 

無意識の部分をポジティブな感情、楽しみなものにすれば一瞬で解決できそうだが、いまのところそのやり方がわからない……

誰かに何かを言われて傷ついた。ネガティブな気持ちになったなど。

 

ついつい相手のせいにしてしまいがちだが、よくよく考えると、やはり自分で自分を傷ついている(本当に相手がおかしい場合もある)。

 

相手の発言を「受け入れてしまっている」。相手に発言に対して、「そうです」と認めてしまっている。

 

たとえば、私は男なので「女のくせに生意気だぞ」と言われてもなんとも思わない。おそらく頭に?を浮かべるだろう。いきなりそんなことを言ってくる相手に恐怖を覚えるかもしれないが……

 

ほかにも、「不細工だから彼女ができない」と言われてもあまり響かない。男は顔じゃないと思っているし、いままで良くしてくれた人たちがいるからだ。

 

しかし、「能力がないから稼ぐことができない」や「そんなんじゃやっていけないぞ」などと言われると、心がぐらつき、焦り、傷つく。

 

お金の稼ぎ方がわからない、生活の仕方がわからない、これからどうなるのかわからないと、不安や恐怖を感じているからだ。

 

私自身が「そうです。私には能力がありません」と認めてしまうから、傷つくことになる。

 

傷つくことで、自分の弱点、無意識に考えてることがわかってくる。

 

うまく使えば、人生がより良くなっていくはずだ。

 

しかし、言うは易く行うは難し。頭ではわかってるが、どうしても傷ついたショックで体が動かなくなる。

 

どうすればいいのか……いまのところ答えはでていない。

「運は限りあるのものだから、少しずつ少しずつ大事に使いなさい」

 

おそらく人生で一回も言われたことがない。しかし、いつの間にか私の心には「運は有限である」という強力な信念できている。

 

たとえば、運の数値が100で良いことが起きたら20減って80になる、0になったら大変なことになるから気を付けよう、たまに数値が増えたりする、など。

 

運の上限が決まっていて、そこから減っていくイメージだ。

 

「良いことが起きたんだから、この後、何か悪いことが起きるのでは…」と不安になることがある。

 

百歩譲って、自分を戒めるため、調子に乗らないための言葉として受け入れることはできる。

 

問題なのは、悪いことが起きたとき。

 

「こんな悪いことが起きたんだから、もっと悪いことが起きるのでは…」と思ってしまう。泣きっ面に蜂というやつだ。

 

数値の話でいうと、良いことが起きたら20減って、悪いことが起きたら50減る。

 

良いことが起きたから悪いことが起きる…とビクビクして、悪いことが起きたらもっと悪いことが起きる…とビクビクする。

 

文章にすると支離滅裂でむちゃくちゃだ。

 

本当に運が数値されているものなら、良いことが起きたときは増えるべきだ。悪いことが続くのならば、良いことも続かなければ合理的ではない。

 

そもそも運の数値の100は誰が決めているのか。運命とか神様が決めているのか。それもなんだかおかしな話だ。

 

何より怖いのが、これだけ支離滅裂で不合理でおかしな話でも、私の中では矛盾がないということ。無意識でこれらを受け入れてしまっている。どっちに転んでも悪いことが起きると信じている。

 

どうすればいいのかわからないが、ひとまず言語化することで何かが変わっていく。それを信じて生きていくしかない。

怒りや不安、ネガティブな感情をもったときは、おそらく恐怖に支配されている。

 

攻撃される、奪われる、馬鹿にされるといった恐れを抱き体が動かなくなる。

 

無意識の中に恐怖が生まれ、その恐怖を言語化、意識化できれば消えると考えている。

 

この言語化がなかなかできない。

 

理想の自分、なりたい自分、楽しんでる自分、幸せな自分、ワクワクしている自分を想像すると、「そんなの無理だよ」という声が聞こえてくる。

 

無理だ、ダメだ、できない、失敗するといった声。変わることに恐怖している。

 

なぜ自分の道を進むことに恐怖を感じているのか。なぜ酷い目に合うと信じているのか。

 

もし私がお金持ちになったり、ヒーローになったり、幸せになったりしたら、どんな酷いことが起きるのか。

 

いまこの文章を書いていて、「もし私がお金持ちになったら強盗に襲われる」 と想像した。悪い奴らに住所を特定されて襲われる。

 

お金持ちになる想像をして、強盗に襲われる想像をしてるのだから、なんだかおかしな話だ。これではお金持ちになれないな……と納得してしまう。

 

ほかにも幸せになったら、誰かに破壊される、奪われるといったことも考えた。

 

身近で大切な人、たとえば親や友達に裏切られる、とかよりも、まったくの他人がいきなり襲ってくる不安のほうが強い。いきなり車が突っ込んでくるのではないか、という恐怖。

 

「見知らぬ他人が怖いです」 と言語化はできるが、これがどうもしっくりこない。

 

結局、最初にもどって、またネガティブな感情に振り回されてしまう。

 

いつの日か恐れをみつけ真正面からぶつかっていきたい。

 

その日がくることを信じて日々生きている。