義母の三線 | はなれでひなたぼっこ

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トイプードルのくぅちゃんと
施設や小学校を訪問するボランティア三昧していま~す♪

昨日は「沖縄慰霊の日」でしたね。



実は、私の夫は沖縄生まれの大阪育ち


そして彼の母親・・・つまり私の姑は


あの、「ひめゆり部隊」のひとつ下の学年に所属していて


戦禍の悲惨な状況の中を逃げまどい追い詰められ


摩文仁の丘近くで米軍の捕虜になったという経験をしています。





義母は、2年前に他界したのですが


彼女が持っていた真新しい三線が、我が家へ形見として迎えられ


間もなく開催される大会に向けて、今、私の手で奏でられています。



沖縄に生まれ育った彼女は、


戦後、親の決めた相手と結婚するもすぐに離婚、


母と1歳の息子(私の夫)を連れて本土に渡り


大阪で暮らし生始めますが生活は苦しく


再婚した後も苦労続きで相手の連れ子も合わせて


4人の子供と母親を女手一つで養って来ました。




幼い頃から家庭は貧しく、学校に通うために


麦わらで帽子を編んで学費をかせいでいたそうで、


それから亡くなるほんの数年前まで、


その一生をほとんど働き詰めだった義母。



退職して自分の時間が持てるようになった時、


それまでずっとやってみたかった三線を習いたいと、


楽器を買い、教室に通い始めたその後に、癌を発症、


あっという間に他界してしまいました。



残念ながら、晩年は価値観の相違から、


嫁の私とは交流の途絶えたまま


お別れを迎えることになってしまいましたが、


嫁姑の間では仇となったその頑なな部分も、


だからこそ、あの時代、あの環境を生き抜いて


家を家族を守り通すことができたのだよなと、


心の中では尊敬もしていました。




夫が形見にと持ち帰ったこの三線、


縁あって、私のこの手で奏でることになった時、


実はとても複雑な想いがしていました。







弾き始めた頃は、


締めても締めても音の狂う若い弦の調整に戸惑いながら、


ああ、義母はほとんど弾けずにいたのだなぁ、


残念だったろうなあと・・・そう思いました。


この頃やっと音の安定した弦をはじきながら(演奏はまだまだですが(^^;)


やはり思い浮かぶのは義母のことです。




生きていた頃には極力接点を持たずに過ごしていた、その義母と、


ちゃんと向き合いなさいと、


三線がそのためにここに来たような、そんな気もします。




昨日は、沖縄慰霊の日。



義母が語ってくれたあまりにもむごたらしい沖縄戦の体験談を思い出しつつ、


そこで生き抜いて、夫を産み、育ててくれたことに


改めて感謝もしたいと思います。



お互い、生まれ変わって、も一度どこかで出会えるなら、


その時は、もっと笑い合える良いご縁でつながっていたいなぁと、


そうも思っています。








もう10年以上前になるのですが


沖縄へ夫ののルーツを訪ねる旅をしに行って


義母が生きて来た場所、その歴史に触れることができました。



決して忘れてはいけないことだと、


毎年、慰霊の日にはその時の想いを綴った自分の記事を


読み返して、リンクしています。



次の記事に掲載しますので


よかったら読んでみてくださいね。