ko ko ko mai

 

と発音すると

思い出す

 

同じくらい言いにくい

 

wa ka ta ka ka ge

 

 

 

 

古古古米

若隆景

大阪中之島美術館で開催中の

上村松園展

 

この方の描かれる女性の美しさ、静謐さ、上品さ

実際の女性には、もちろん私を含め、きっとないものだろう

観ているだけで、気持ちがすぅーっと鎮まってくる

そんな力を 松園さんの絵に 私は感じる

 

『一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ 私の念願とするところのものである』 

展覧会パンフレットにある、松園さんのことばだ

 

その心構えが 絵に現れている

だから、惹かれるのだ

一点の卑俗もない・・・ 生身の人間では あり得ない要素だもの

 

 

日経ポケット・ギャラリー『上村松園』

 

日経ポケット・ギャラリー『上村松園』を読んでいると 次のような記述もある

 

『その絵を見ていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる……といった絵こそ

私の願うところのものである』

 

究極だ

その願いのもと描かれた絵で 少なくとも私の邪念は 確かに消えていくようだ 松園さんの願いが 少なくとも私には届いている

すごいことではないか

 

そんな松園さんの絵の数々を目の当たりにできる

ということで、展覧会へ行くことを 楽しみにしている

 

が、少し「?」と思う点が出てきた

 

同じく日経ポケット・ギャラリーの冒頭で

こんなことも書かれているからだ

 

『芸術を以って人を済度する。これ位の自負を画家は持つべきである。よい人間でなければよい芸術は生まれない。これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に言える言葉である。よい芸術を生んでいる芸術家に、悪い人は古来一人もいない。みなそれぞれ人格の高い人ばかりである』

 

本当にそうだろうか・・

同じ人間の中に、「善・悪」「清・濁」の両方があって当然ではないか 

善だけ、清だけの人間などいるわけがない

私の解釈こそが、偏っているだけだろうか

 

っま、いろいろ考えず

ただただ絵から何を感じるか

楽しみにしているところである

大阪府堺市 さかい利晶の杜

を訪れた

 

「利」は利休

「晶」は与謝野晶子

今回は「利」の方が目的

 

醍醐味はお点前の体験と茶室見学

お点前は畳に正座するパターンと、椅子に座っていただく立礼(りゅうれい)式

初めての人でも丁寧に教えていただけるから、大丈夫

長年お茶をされていても、日常の生活でキリキリカリカリしている人を知っている

茶道の精神が生かされないものかと思うのですが・・と質問してみたら

人によります とのお返事。そりゃ、そうですね

 

2畳の茶室

利休の客への心配りがちりばめられ

かつ余計なものの一切ない、研ぎ澄まされたわびの空間

何もいらない、ここで暮らしたい

窓の外は小雨

その雨音と光、緑

もう、ほかに、なにもいらない

 

スクリーンで十五代吉左衞門・樂直入氏が言っていた

「茶室は外の世界との境。茶室にいるときくらいは

全ての欲を捨て、心穏やかに」といった主旨のことを

 

ここにいれば、確かに欲を捨てられそうだ

そして外に出れば、またもとに戻る・・

人間は、哀しい生き物だと思う