たまの出張が再開した夫のネクタイを結んだ。

 

結婚して20年以上になるが、夫のネクタイを

結んだ記憶はほぼない。

 

夫は普段、カジュアルな格好で自転車に乗って

通勤している。

会社に着けば制服に着替える。

 

だから毎日スーツを着る夫を持つ女の人が、

その夫の身支度にどう関わっているのか

私は知らない。

 

私は、子供のいない専業主婦だが、

自分自身とたくさんの猫の世話で手一杯で、

夫のことは二の次だった。

 

夫は、大人の男なので、自分のことは自分で

出来るだろうと思っていた。

 

この3年の巣籠生活で、夫は病的なほど

太り、手持ちのスーツのどれも着ることが

できない体になっていた。

出張が明日に迫っているにも関わらず。

 

私が会社員であれば、身支度や体型管理に

少しは気を使う。

夫に、そういうところは一切ない。

 

夫に格好いい男であってほしいという思いは

ない。

現に夫は出会ってから今日に至るまで、

一日たりとも格好いい男であったことは

なかった。

 

誰もが、格好良く素敵であらねばという

呪縛の中で苦しんでいるのに、

そこに頓着しない夫は、私から見れば、

羨ましい存在だ。

ある意味格好いい。

 

家の食事に太る要素はない。夫が太る原因は、

推測するに買い食いだ。

多分、通勤の途中で甘いお菓子を買って、

ボリボリ貪っているのだろう。

 

それが、妻への不満や仕事のストレスからの

行動だとしたら、見過ごすわけにはいかない。

 

今の体型に合う、一番大きいサイズのスーツを

大枚はたいて新調し、帰宅したあと私は

夫に言った。

 

「太り過ぎだよ。自己責任だと思ってたけど、

もう放っておけない。

あなたが早死にするのは、困る」

 

うん、と神妙な顔で頷く夫。

 

「あなたが死んだら若い恋人をつくれば

いいけど、それは、面倒くさいから。

私、面倒くさがりだから!」

 

夫は、食事療法を中心に、健康を意識した

生活にシフトすることを受け入れた。

 

 

そして、今朝。

夫が変わるなら、私も変わらなければ

ならない。

 

自分が夫を大切に考えているという

ことを行動で伝えたいと私は思った。

それが、ネクタイを結ぶことだった。

 

ネクタイを手に持ち、私は夫の正面に

立った。

 

「お、ありがとう」

驚いた顔をしながらも、まんざらでも

なさそうな夫。

 

ワイシャツの襟を立てる。

想像してなかった硬い布の感触が指に

伝わり、やばいところに足を踏み入れて

しまったとドキッとした。

 

ネクタイを首に回す。緊張と焦りで息が荒く

なりそうだったが抑えた。

 

YouTubeでは、簡単にやっていた。

とにかくぐるっと回して、輪っかに入れれば

いいだけだ。でも、手がもつれて、そこに

ネクタイが絡みついて上手くいかない。

 

あれ、あれ、と言いながら何度か持ち替えると

夫は不機嫌そうに

「もう時間ないからいいよ」と言ったが、

それには応えず、続行した。

 

「ごめーん、簡単かと思ったけど

無理だったわ。次、リベンジするから!」

 

そう言っても良かったのだが、それを言えば、

全てが終わる気がした。

ここが分かれ目だと思った。

 

結び目が大きいのがイケてる気がした。

そのイケてる結び目にするために、

力を入れずにふわっと結ぶことに

こだわった。

 

思い描いていた仕上がりとは違うが、

良しとした。

ふわっと結んだので、ネクタイの

付け根が見えていてへんな感じだ。

 

でも、今の自分の全ての力を出し切った。

きっとネクタイの神様も許してくれるだろう。

夫はもともとネクタイの結び目には

こだわらない。

 

「時々、鏡見て直してね」と朗らかに言って、

夫を送り出した。

 

夫の出張先の人が、ネクタイに着目しなければ

いいが、と私は思った。

営業ではないので、仕事に差し障るような

ことはないはずだ。

 

朝食をとりながら、YouTubeでネクタイの

結び方を見直した。

 

ぐるっと回すのが一周足りなかった

気がする。

 

首元まで締め、ディンプルとかいう

窪みをつくるのが、オシャレの証明だとか

なんとか言っている。

 

全く真逆のことをやった気がする。

 

ここから新しい流行りを作る、ぐらいの

勢いのことを、全くそれに相応しくない人物で

やっちゃった感がある。

 

この試みは、世界に黙殺されるだろう。

こうなったら私の望みは、ただ一つ。

夫が無事に帰って来さえすればそれで良い。

新しいネクタイの結び方は

他の人にお譲りする。