まずは腹ごしらえ。



ハラールカレーセットのキーマカレー。
ハラールって何だ?

昨日カレーを頼んでいる子どもがいて、羨ましかったので頼んでみた。

今日は昨日の過ちが悔しすぎたので、同じ時間に行ってバスに乗る。
ミスをした時に本当はこうしたかった、という動きをして、世界線を塗り替える作戦。
無事成功。
間違えずに乗れた!
やったね。

大分早く着いたけれど、ゆっくりご飯を食べればいいや。

キーマカレーとは?
調べてみたけれどあまり分からない。
とにかく挽き肉を使っていること、アジアらへんの料理ということ。

そしてハラールは、イスラム教の人が食べてもいい料理。
なるほど。外国ではハラールしか食べられない人もいるから、ハラール料理を取り扱っている店もあると聞いたことがある。

味は、意外とあっさりしていてスープカレーっぽい感じやった。
でもクセはなくて食べやすかった。
ご飯は普通くらいの量やったけど、だんだんスープを吸って膨らんだのか、最後はお腹ぱんぱんになった。

食べながら、予約席があることに気がついた。
そして、警察か分からないけれど、偉い人っぽい人たちがわらわら集まってきた。
ますますもってここがどういうところかよく分からない。
近くのHAT神戸というのが関係あるのだろうか。
なんだかよく分からない、よく分からないばかり言っているが、分からないものは分からないのだから仕方がない。
とにもかくにも不思議なエリアである。

さて。まだまだ時間があるな。
それはそう。
始まるのが13時からで、11時半についていたのだから。
でもいいのだ。
昨日をやり直すことがわたしにとっては必要だった。
そういうこだわりみたいなものを、分かる人がいてくれると嬉しい。
少しズレたことがいつまでも気になって、どんどんそのズレが広がっていくような気がして。
元の位置に戻さないと、ずっともやもやする感覚。

時間があるから食堂でぼんやりしようとも思ったが、やはり昨日同様、昼時になると人が増えてくるので断念。

諦めて館内をうろつく。

本がたくさんあるコーナーがあったので、そこで落ち着くことにする。
散々色んな図書館で、国際理解コーナーを探したり、ラオスについての本を探したりしていたが、ここが一番充実している。 
考えればそうか。
ここが家の近所にあれば、しょっちゅう通うのにな。
神戸はちょっと遠すぎる。

子ども向けから英語の本まで、ジャンルも様々。















本ブースで撮った写真たち。

『世界がもし100人の村だったら』は、授業で使えそうだ。

しかし、この国際交流系の授業を考えていて思うのが、低学年向けの授業を考えるのが難しすぎること。

例えばこの本だって、まぁ簡単に噛み砕けば賢い子なら理解できるかもしれないが、今のわたしのクラスではポカーンの人が続出しそうだ。
なんかいい方法ないのかな。
わたしが小学校低学年の時は、どんな授業を受けていたんだろう。
韓国の民族衣装や遊びを体験した記憶はある。
あとアリランの歌を歌っていた。

今思えば自分の行っていた小学校は、がっつり人権教育(当時は同和教育)がされている学校だったのはいい経験だった。

不思議と人権に関する授業の内容を、よく覚えている。
男らしい、女らしいとは何か考える絵本を、授業参観で読んだり。
「人権ゆかりの地巡り」と称して、人権に関する施設や場所を自由に回ったり。
わたしが覚えているのは、女紅場というところの跡地について調べ、実際に行ったこと。
女紅場は、明治期の女子教育機関らしい。


そうそう、こんなところ。

あとは水平社宣言の石標。
これはよく覚えている。



以下、水平社宣言の本文。


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全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の爲めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。


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この台詞と、山田少年の写真をよく覚えている。覚えているということは、かなりがっつり教えてもらったからなのだろう。

なかなかな内容だ。
今の小学校では、ここまでやらない。
えた·ひにんという身分の存在について歴史で少し触れる程度のことだろう。

わたしが大学生になったとき、まず驚いたのはこのことだ。
つまり、わたしの周りの学生は、被差別部落についてほとんどの人が知らなかったのだ。

そんなことあるか?

自身が過ごした小学校では、このような教育を筆頭に、かなりの時間を割いてがっつり同和教育をしてもらってきたため、てっきり全国どこの小学校でも同じなのだと思っていた。

ふたを開けてみれば、
知らない。あるいはあまり関心がない。差別の何が悪いこと?
という感覚の同級生たちばかりであった。
こんな人たちが、教師になって大丈夫か?
 
そう思い、またこれをきっかけに、逆に人権教育について関心が沸いたわたしは、森実先生が主催する人権ゼミなるものに1回生から参加することにした。

そこに行くと、派遣された教員のおばちゃんおっちゃんたちや、1回生ではなさそうな人たちが集まって、あれこれ人権について考えていた。

あれ、そういえばいつから人権ゼミに行かなくなったんだっけ。

他の授業やバイト、サークルが忙しくなって、あまり行けなくなったのかな?
あまり覚えていない。

森実先生というのは、部落問題概論という授業を教えてくれていた大学の教授だ。
その森実先生が、授業の終わりに紹介したのが人権ゼミだった。

何だろう、気になる!と思い1人でふらりと行き出したのが始まりだった。

人権ゼミでは、何をしていたかな…記事や本を読んだり、フィールドワークに出たりした。
被差別部落に行き、色んな施設を回って実態を知った。

大学って色んなことを勉強したはずなのに、断片的にしか覚えていないのがとても悲しい。
嫌な記憶を忘れてくれるのは嬉しいが、そういうことを覚えておける人がとても羨ましい。

まぁとにかく、週に1回のこの会がとても楽しかったのだ。

また、森実先生がこれもまた授業で紹介していた、重度訪問介護のバイトもした。
動機は、自分の差別する心と向き合いたい、というものだった。
自分の心の中にあった、
障害者はかわいそう。
という気持ち。
この気持ちととことん向き合いたいと考えて、介護のバイトを始めたのだ。

介護の資格を取り、身体に重度の障害を抱えながらも、自分らしく生きるために一人暮らしをする方の生活のお手伝いをした。
料理やお風呂、トイレの介助など。

しかし全然料理のできないわたし。
いつも作った料理を頑張って食べてくれていた利用者さん、とてもいい人だったな。
言葉が全然分からなくて、わたしは手話も出来なかったから、何となくの聞き取りでしかコミュニケーションが取れず、どう考えておられたのかよく分からない。
それでも、あんなまずいもの(にんじんはいつもカチカチだったし、焦げていて味付けも...言葉にできないほど。)をいつも残さず食べてくれていた。
今ごろになって思うけれど、本当にありがとうございました。

結局このバイトは1年くらい続いた。辞めた理由は、1日4時間しかなくて給料が生活していくには十分でなかったこと、大学の寮から利用者さんの家がかなり遠かったこと。
それでも、このアルバイトをしてよかったと心から思っている。
バイトを通して、当たり前だけれど障害者も健常者と同じ人間で、感情もあるし、個性だってある。
障害者だからって腫れ物扱いするのではなく、同じ人間として扱ってほしい、という声を聞くことができたし、実感として感じた。
この感覚は今も持っている。
障害者だからかわいそう、とか、障害者に生まれて不幸とか、そういう風には思わなくなった。
不便だけど、不幸ではない。
という言葉をよく覚えている。

この感覚を子どもたちにも伝えてあげられたらいい。

そういえば小学校には車椅子バスケの選手も来られていた。
いい経験をたくさんさせてもらえていたのだな。
今の子たちにも、色んなことを経験させてあげたい。
お金や時間、カリキュラム、働き方改革とか、色んな障壁はあるけれど、大切なのはこれからの時代を生き抜く力を持った子どもたちを育てること。
この本質を忘れてはいけない。

話が脱線しすぎてなんだったか。

この本ブースが良かったということが伝えたかった。

そうこうしているうちに時間になった。

なに!?写真がもう貼り付けられないだと…。
ちょっと減らそう。
えいえい。





絵もあった。
とてもよい。
この絵も説明というか募集の紙があった気がするが、持ってくるのを忘れている。悔しい。



まず兵庫県教育委員会の指導主事からのお話。

神戸のお話を色々と。
外国人がとても多い。
すなわち児童·生徒もとても多い。

子どもたちは、日本語も分からない。
日本文化も分からない。

例えば掃除の時間、というのは外国では無いことが多い。
そんな子どもたちに、掃除しなさい!と言ったところで言うことを聞く訳はなく。

国ではどうだったの?
と相手の立場に寄り添い、やりたくないと言ったなら理由を聞き、こちらも言い分を説明し、という作業が必ず必要になる。

この話を聞いていてわたしが思い出したのは、去年持っていた5年生の隣のクラスに来たアメリカ人だ。

彼は日本語が分からず、また京都は外国籍児童をサポートする体制が十分ではないため、隣の主任は悪戦苦闘されていた。

しかしさすがベテランの先生で、こちらが「そこまでやるか…」と思うほどに手厚くサポートされていた。
おかげで残業時間は凄いことになっていたが、その子は毎日学校に来ていたし、家では学校楽しい!と言っていたらしい。
ご両親もとてもよく思ってくださっていた様子が、隣のクラスながらよく伝わってきた。

自分もいつか、クラスに外国籍児童が来たとき、あの主任みたいにサポートできる力をつけたい。

次の分科会では、教師海外研修に参加された教員の話を聞いた。

そこでいいなと思ったのは、フォトランゲージという技法だ。

子どもたちに注目させたい写真をあらかじめ切り取ってバラバラにしておき、それをパズルにする。
そこからピースを組み合わせ、できたものを見て気づいたことを考えるという手法だ。
すごくいいやり方だし、是非真似してみたい。
これ、よく考えたら前に図工でやったことがある。
有名な手法なのだろうか。

あとはペルーと日本の共通することや、違いなどを教えてもらった。

また、最後に話をされた先生は、防災学科のある高校で教えておられるそうだ。
防災学科なんてあるのか。
まずそれが驚きだ。
でも確かに、京都教育大学の理科教育の中にあった地学の研究室は地震学についてだったし、今の時代、というか日本において非常に注目度の高い分野だ。
天文学より役に立ちそう。

この話もとても興味深かった。
その高校の卒業生が、なんとエルサルバドルで地震に関わる仕事をされていたのだ。

途上国での地震への意識の低さ、それどころではない、今を生きるのに必死、という感じがよく伝わってきた。

最後にはクロージングセッションと称して、知らない人とぐるぐる1分間しゃべらされた。
こういうの苦手だ。

苦手とか言ってられないか。

なんとか色々ひねくり出して、会は終了。
濃い2日間だった。

ここで得たものを何か小さなことでも活用したい。
実行に移すことで成果が得られると思うから。
ますはフォトランゲージをしてみよう。