「ありがとうございました」

■そのおむすび屋は、オフィス街の駅前に予告もなくオープンしていた。すぐ隣には大手チェーンのファーストフード店が並ぶ。おかかは百二十円、昆布も百二十円、梅干しは百三十円といった感じで、特に珍しいラインナップでもなかった。

■ただ、そこで働く女性店員は、見過ごすことができない程、青木が好みとする容姿をしていた。

■青木はまだ、そのおむすび屋でおむすびを買ったことがなかった。ただ、ふらりと店先を横切った時に、その女性店員、看板娘に惚れ込んでしまった。

「またお願いします」

■看板娘が常連客のようなオジサンのサラリーマンに健気な愛想を振り撒く横で、ちょうど同い年くらいの見かけの悪い若者がだらだらと品出しをしている。

(あいつは、彼氏なのかな?それとも、旦那なのか?)

■青木はその若者に敵対心を剥き出しにして、店先を横切りながら食い入るようにネームプレートを覗き込む。

■看板娘のネームプレートには、「よこやま」と書かれてあったが、若者のそれには、「てんちょー」と書かれてあった。
■何ともふざけた名前に、青木は珍しくストレスを抱えたが、それをどうすることもできずに隣のファーストフード店に足を運んだ。
■ハンバーガー一つ、持ち帰り用の紙袋に再びおむすび屋の前を横切る。すると、看板娘の「よこやま」から「おむすびいかがですか?」と呼び掛けられたが、青木はびくりとして目を合わせることもできず、素通りしてしまった。

■青木はそれまでの男だった。


■翌日、青木は少し離れたところから「よこやま」の様子を伺っていた。世が世ならストーカー紛いの微妙な距離感だった。

■「よこやま」は道行く人々に「美味しいおむすびはいかがですか?」と笑顔で声をかける。今のところ、その呼び掛けに応じる客はいなかった。

■その折、「よこやま」がふと青木の方を一瞬だけ見て、青木と目が合ってしまったが、青木はあっち向いてホイのような感じで顔を逸らした。何度でも確認のためではあるが、青木の限界はそこまでだった。

■若く細めのサラリーマンが「よこやま」の前で立ち止まり、鞄を置いておむすびを指差す。どうやら、おむすびを買っているようだった。

■そのタイミングを逃さじと、青木は意を決して「よこやま」のいるおむすび屋に近寄る。ただ、ショーケースのおむすびを遠目から品定めできる程の、これまた微妙な距離からおむすびと「よこやま」を見つめる。

■その時だった。「よこやま」は青木に向かって、声を掛けた。

■「もっと近くでご覧ください。上段はさっき握ったばかりですよ」

■青木は動揺して身体が鉄のようにまったく動かなくなっていた。

■「お味噌汁は五十円引きです」

■ゆっくりとだが、「よこやま」の声に引かれるように足が動き出す。一歩一歩、不自然な歩みでも青木にとっては大きな前進だった。

■そして、青木が店先に到着した時、青木は思いもよらない言葉を耳にした。

■「いらっしゃいませ。確か昨日もお見かけしましたよね?」



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