15歳・・・・ | 花花オーナーのブログ

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ブログで仲良くしてくれてるメグリーンさんの

本日のブログに素敵な曲が紹介されていましたニコニコ



曲を聴きながら15歳の頃を思い出して

ちょっと書いてみました得意げ




中学3年生のときに、家は、破滅状態に陥り

暴れて母親に暴言・暴力をふるう父に

「そんな嫌な女なら、別れてしまえばいいやん!」

っておそるおそる言いました。

父親は、勢いで母に向かって「お前なんか離婚や!出て行け!」って

言ってくれました。

怖い中でも、私が狙って計算した通りの答えが返ってきました。

私は、母に「親父がこんな風に言うんだから、出ていきなよ!」って

言いました。

その頃の我が家には、食べるものも、溜まった中学の学費を払うことも

光熱費を払うことも、全くできない状態でした。

今が、チャンス。人生に何度も訪れない最大のチャンスだと思いました。

母がすぐに生活に困らないように

母の身の回りの物を私は、必死で紙袋に詰めました。

母が言うんです。青い顔して

「きっと、後から追いかけてきて俺が買ったものだから返せ!って言われる

 だから何にも持っていかない」


私は、殺気立った父に向かい「そんな小さなことを言う人やったん?」って

全て計算づくで言いました。

父は、引きっぱなしの布団の中から顔だけ出して案の定

「そんなこと言ったことがない!!!」って言ってくれました。

多分、5分くらいだったかな・・・母の身の周りの荷物を紙袋に入れて

私は、母を出て行かせました。

正確には、母を逃がしてあげました。

母は、走って逃げて出て行きました。

どこに行くのかも、何も聞けないまま・・・・母との別れでした。



気が付けば何もないアパートで父と二人残ってしまいました。

次の日に、父が私の中学校へ「転校」の話をしに行ってました。

帰宅すると家電もなくなっていて

私は、又何かが始まるっていう怖さで胸が震えました。

中学校の制服と大事な教科書、最低限の身の回りのものを

親友に預け・・・・

岡山県の倉敷市から父と二人神戸に逃げました。

家財道具を売ったお金で、そこから父と二人ホテルでの生活が始まり

所謂、夜逃げだったと思います。


学校も行かずに、イライラ怒る父のそばで時間は過ぎていきます。

あの頃は、本当は、お医者さんになりたかったから

勉強は、頑張ってたけど・・・

全て捨てて諦めて父のそばで時間は流れます。

明日、生きてるのか死んでるのかわからない長い時間でした。

子供なので何にも知恵がありません。

軟禁された部屋で夜電気が消えてから

隠れて泣くのだけが私の救いでした。

あの時に窓から見えた「揖保の糸」の電飾の看板が今も心に焼き付いています。



時間の経過と共に

もうお金も底をついてきたようで・・・・

父も焦ったのでしょう。

私にピンクチラシを見せつけ「お前がこんなところで働いたらお金になるぞ!」って

言われました。1番、恐れていたことが、ついにやってきました。

私は、どうすればここから逃げられるのか

必死で考えました。

父が倉敷にいるときに、幼馴染の友人の親からもお金を借りているのを

思い出しました。

その幼馴染は、岡山では、有名なやくざの組長の息子でした。

父に隠れて電話をして「助けて欲しい、迎えに来て欲しい」と

私は、懇願しました。父は、お金を借りたまま夜逃げしているので

そこの息子が出てきたら、何にも口出しできないって私は、考えたのです。



私の計画通り、父に「迎えにきてもらって私は、1人で倉敷に帰る。学校へも行く」って

話して、父に無理やり納得させました。

今思えば、父にとって金づるであった私かもしれませんが

逃げて生活するのには、邪魔な存在であったかもしれません。



最後に父と「KYK」で食事をしました。

あれが、父と最後にとった食事になりました。

倉敷まで帰る電車賃だけ、父が最後にくれました。

私を見送ることもなく

別れを告げるわけでもなく

黙って父のそばを離れました。

とにかく、あてがなくても、ここから逃げ出したかった。

あの場所へ帰りたかった。

そんな思いで必死でした。


幼馴染の3歳上のT君とは、岡山駅で別れました。

彼女に私と一緒にいるところを見られたくないからって・・・

行くあてがない私は、ここでもやはり置いていかれました。

岡山から倉敷まで電車で20分くらいかな。

最後に残ったのは、僅かな10円玉だけ。



家族で住んでいたあのアパートへ1人戻り

持っていた鍵をあけて家に入りました。

2Kのアパート、ドアを開けると全く何も無い状態で

唯一、電話機だけが残っていました。

いつもは、靴を脱いで入る自分の家だったけど

靴のまま入りました。

電話機の受話器をとって、耳にあててみましたが

「ツーーーーー」って音がするだけで・・・もちろん使えない状態でした。

受話器を持ったまま・・・

私は、1人佇んでいました。



ついに全てがなくなりました。

父も母も住む家も、お金も頼る親戚も

食べるものも・・・・・・・・・もうこれ以上なくす物がない状態に

なりました。いくら考えても何もないのです。



私は・・・とりあえず、今日の事だけ考えようって

自分にそう言い聞かせました。

今日の事だけ。

今日だけ。。。。



家が近い同級生の友達を訪ねました。

「お願いだから、今日だけ泊めて欲しい」って。

急に居なくなった私が、ひょっこり訪ねてきたので

友人も友人のお父さんも、すごく驚き、帰ってきたことを喜んでくれて

私は、その日寝る場所を確保しました。


明日からどうやって生きていけばいいのか

15歳の私は、考えていました。

涙は、出ませんでした。

子供は、生きようと生きていこうと必死になる力を持っているのです。


本当の試練は、このとき、やっと幕を開いたのです。

ここまでは、ほんの序章に過ぎなかったと

少しあとで私は、気付きました。




                        


                                  続く・・・・



メグリーンさんが 教えてくれた素敵な曲。

15歳の私を43歳の今の私が

必死で生きてきたことを心から褒めてあげたいと思える

そんな素敵な曲でした。