今から書くのは過去日記のようなものだ

なぜ拒食症になったのか。今の私は正直あまり覚えていない。だが今でも、当時の覚えていることをここに残そうと思う。時系列がごちゃごちゃかもしれないが、思い出したことを書いていこう。

時期は中学2年生の夏休み明けたぐらいの時だったと思う。
たしかその時の体重は42キロ程だったと思う。痩せすぎでもなく、適正体重ぐらいだった。
当時の私には、高校生の兄がいた。兄は俗に言うデリカシーのない男で、家族で夕飯を食べている時に親と兄妹で、体型の話をしていた。兄が「俺、🌸より身長もでかいのに、腕とか脚は俺の方が細くね?」という発言から私の思考はおかしくなったのかもしれない。
その日を境に私は体型を意識し始めた。成長期なのに、急な過激なダイエットをしたので勿論体調も崩した。体調を崩したら食欲がなくなった。食べることを抑えたらみるみる私の体重は落ちていった。

中学2年生の3月頃には体重は、あまり覚えていないが35は無かった。約10キロは落ちてしまった。
他の拒食症患者と比べたらまだマシな方だったと思う。因みに病院には行かなかった。

食事をするということに抵抗を抱き始めた私。一番困ったのは学校の給食だった。残すのにも抵抗があったので、とにかく自分のお皿に乗っているご飯を減らした。周りからそんなに減らして大丈夫?死んじゃうよ?もっと食べなよ!色々言われた。もちろん先生からも。また減らすのか?もっと食べなさいよ。最終的に私が量を決めて自分で減らすのではなく、先生が私の減らす量を決めて、このくらいは食べなさい。このくらいなら食べれるでしょう?とされてしまうことになった。

牛乳は残しちゃいけません、残すならこの線まで飲んだら残していいですよ。というルールがクラスではあった。だから私の給食の食べ方の順は、牛乳をボーダーラインまで飲む。大きいおかず、小さいおかず、ご飯パン、どれかを優先してひとつでもお皿をからっぽにする。たまに友達にこっそり食べて貰ってた。給食が苦痛で仕方がなかった。(伝わるかな?)デザートなんて勿論、食べたことは無かった。

給食のあとは家での夕ご飯。私の家では、ご飯お味噌汁は自分で食べる量を調節でき、おかずは1人1皿決まった量が出されるのが私の家の決まりだ。
私はその決まった量の出されたおかずしか手をつけなかった。その出されたものも当時の私は全部食べれなかった。2口ほどたべたらお腹いっぱいになって、吐き気がくるからだ。食べれなかったときは母に、またあとでお腹すいたら食べる。そう言って席を離れて、いつでも吐けるようにトイレの前で吐き気が戻るまでずっと座るのが毎日だった。

人の前で食事をすることも、苦痛になっていた。
そんな私に母は初めは、ちゃんと食べなさい。そう私を叱った。だがこれが毎日続いいたので、日が経つと母はなにも言わなくなった。
そんな私でもお腹は空く時はあった。お腹がすいた。そう言うといつでも、母は食べ物を出してくれた。朝も食べない、昼も少量しか食べなかったので、歩いて学校から帰ってくるときはお腹が空いていた。いつも17時くらいに帰宅し、夕飯前なのに母は夕飯とは別で食べ物を出してくれてた。

私はお風呂の前に鏡前で裸で立つのが毎日のルーティーンだった。今でも覚えている。お腹が本当にぺっちゃんこで、なんならあばら骨ごりごりに見えてて、あばら骨からしたはむしろ沈没?していた。顔も自分でもスッキリしたなって思えれた。そんな私が綺麗に見えた。けどまだ痩せれる。そんな思考にも陥っていた。

とにかく周りの体型と自分を比べてしまっていた。あの子よりかは私の方が脚が細い。私の方が身長高いのにあの子より私の方が体重は軽い。クラスで一番軽いんじゃないかな?あの子足細い、ダイエットしてるわけじゃなさそうなのに私も負けてられない。ブスだからスタイルくらいはみんなより良くなりたい。体型で勝手に自分で周りと勝負していた。

「🌸ちゃんは本当に細いね」周りからかけられる、「細いね」そんな言葉が私は至福でしかなかった。細いと言われるのが本当に嬉しかった。あの頃の私は細い分だけ、スタイルが良いという思考に陥っていたのだと今では思える。

太るのが怖かった。とても怖くて怖くて怖くて怖くて。ブスでデブな最悪な女になるのが怖くて仕方がなかった。
当時の私は自分は痩せているとは思っていたが、まだ完璧な身体ではないと思っていた。当時の私の完璧とはなんだったんだろうか。それと、自分が拒食症になっていたとは理解していなかった。多分親は理解していたと思う。

学校に行くことも苦痛になっていった。行きたくないと母に言ったが、甘えたこと言うんじゃない。みんな辛くても学校行ってるんだ。とろい事言うな、行きなさい。こんな駄々こねたのはあんたぐらいだ。当時の私にはとても刺さる言葉だった。遅刻ギリギリで歩いて泣きながら学校に毎日登校した。体調も悪いし、保健室で過ごすことが多かった。

私って生きてる意味あるのかな。こんなんなら死んでもいいんじゃないかな。死んだ方が楽なんじゃないかな。むしろ周りの人は私が死ぬことを望んでるんじゃないかな。周りの生きている人間、全員が敵に見えた。死にたいただひたすらに毎日死にたかった。楽に死ねる方法、迷惑をかけずに死ねる方法色々検索した覚えがある。(検索したら1番上に「1人で悩まないでここに相談【 電話番号⠀】ってやつ見て、なにしてるんだろうって何故か笑った思い出があるから)

いつ、回復のきっかけになったのかは覚えていない。たしか中学3年生の冬くらいには食事も前よりかは食べれてたような気がする。安定に食事は減らして、残してたけど。人並みにはまだ食事の量を取れなかった。その時はもう食事という行為に、吐き気というものには襲われなくなっていた。

高校入学、当時の体重は39キロ程。まだ体重は42まで戻れてはいないが、今では中学2年生のころにあった過食期の話は苦労話、笑い話になるほど精神的にも回復できていた。