あれから9年…
8年だっけか?
多分8年…かな
あれから時間が経って、今日本にいないというのが不思議な感じです。
そういえば、4年前のロシアワールドカップの時はカナダにいたなぁ。
そして、今と同じようにサッカーのワールドカップが開催してることを忘れるくらいの状況でした。
あの日の自分には想像もできない人生が待っていたりするんだなぁとつくづく思います。
時間が経てば経つほど、病気であることや、注射を打つことが日常になるというのがこの病気。
妙にポジティブになったりするけど、そんなのが馬鹿馬鹿しいというか、客観的に見たらおかしいんじゃないかと思う今日この頃。
前向きである必要もなくなってくるというか、「当たり前のことにかける熱量」にウエイトを置く意味って何なんだろなぁとか思ったり。
結局のところ、時間が経つと自分も周りもそれが当たり前になって、空気に溶け込んでけるわけです。
時間が経って、頑張るしかないというか、続けるしかないという状況を受け入れるしかなかったからかな。
幸いなことに、自暴自棄になって注射を打たないってことはありせませんでした。
それくらい発症時が強烈すぎて、血糖値があの時の996に近づけば近づくほど「死」を意識せざるを得なかったからかもしれないけど。
成年発症だったからかな。
知ってる人からしたら、隣でザクザク注射打ってても気にもならないし、自分も他人に気遣いとかしないし。
逆にそれが普通だと思ってない人からしたら、この前の電車での出来事みたいに不快に思う(勝手にすればいいと思うけど)人もいるみたいです。
…
あの日のこと、薄れていると思ってても、やっぱり覚えています。
これはいつになってもいい記憶にはならないと思うけれど、思い出した時の記憶は、少し柔らかくなった印象。
良くも悪くも、どんなことでも時間が解決してくれるんだなぁと思います。
苦しさや辛さが大きければ大きいほど、それを忘れるようにできているし、個人差はあっても発症以前に戻っていくんだと思う。
毎年思い出す、劇症ならでは(多分)の辛さ。
それは、過去のブログに書いてあるので興味のある人は読んでみてください。
受け入れるまでの時間。
それが早いか遅いかは個人差で、起きた現実のをどう捉えるか人それぞれ。
僕にとってはかなり衝撃的でした。
少し熱っぽいと感じた12/5から12/10に救急搬送されるまでの5日間、それを含む12/9-11の3日間、生きた心地がしなかった。
少しずつ記憶が途切れていく時間が長くなって、口の中の水分がなくなり、ほとんど喋られない状態で「水が飲みたい」と言ったことや、注射の痛みで目が覚めたり。
やっぱりただただ痛くて、苦しかった。
死にたくなかった。
「助けて」
そんな事考える余裕もないくらい、体は必死に生きようとしていました。
世の中、発症直後に前向きに頑張るとか言う人もいるみたいですが、僕は1ミリもそんな気にはなれなかったかな。
あれを経験してすぐに建て直せるメンタルは、僕にはなかったです。
「死ぬまで注射が必要になる」ことよりも、「生きるか死ぬかの瀬戸際」にいたと思ってるし。
臨死体験みたいな夢見たり。
そんな急に切り替えられるような気にはならなれませんでした。
どっちがいいかはわからないけど、僕は少しずつで良かったかな。
人生の岐路を人に話すには、少しずつ整理する時間が必要でした。
改めて過去の12月10日のブログを見返してみました。
基本的には、1型を発症してからの方がより良い人生を送れているというか、たまたまそういうタイミングだったのかな。
誰かに対する感謝と、頑張った自分を褒めてあげる時間が多かったみたいです。
この一年は、いろいろとしんどいことが多かったですが、やっぱり妻と子供、両親や仕事仲間、支えてくれた全ての方に感謝ですね。
「だからできない」っていうことは、「でもできる」っていう思いでやってきました。
多少の前向きさと、そこそこの卑屈さはそのままに。
発症した時がドン底だったから、基本的に右肩上がりで来れたと思っています。
今は上がっているのか、下がっているのか、プラトーなのかはわかりません。
明日は今年最後のワールドカップ第3戦。
僕にとってはこっちが表。
サッカーは裏側。
まぁ、裏も表もよくわからないんだけどね。
こういうタイミングで、父親が倒れたって言われても特に疑問はないかな。
人生なんてそんなもんでしょきっと。
明日のことはわからない。
1年後や10年後のことなんて、誰にも何にもわからない。
そんな先のことより、明日の方が大事。
まぁ、先のことも大切なんだけどさ。
明けない夜はない。
今日は2つ目の誕生日。
父と母に感謝。
日本で待ってくれている奥さんと息子に感謝
いい1年になりますように。