こんにちは!みなみ天音と申します![]()
![]()
はじめましての方や、私のこれまでの経歴をあまり知らない方に、改めてみなみ天音の人とナリを紹介をさせて頂けましたらと思い、こちらの記事を書かせて頂きます![]()
ワタクシ、現在アラフォーの主婦でして、「漫画家と漫画家志望の間」にいる人間でございます!
「“間”ってなんじゃい!」と思われる方も多いと思うので説明しますね![]()
![]()
ワタクシ、現在WEBTOON(縦読み漫画)のネーム※作家としてお金を頂いているので、ある意味で「漫画家」と名乗ってもいいような気もするのですが、
自分の企画・自分の作画で漫画連載をする「漫画家」を目指している、という意味ではまだ「漫画家志望」でもある……ということで「漫画家と漫画家志望の間」という肩書きでやらせて頂いております![]()
![]()
※「ネーム」とは、漫画の設計図・絵コンテという感じのもので、コマ割りやセリフ、人物の配置や表情・構図などをざっくり描いてあるものです。
人によって棒人間状態のラフさの方もいれば、原稿の下描きレベルに書き込む方もいらっしゃいます。
こういう自己紹介をすると、大抵の方に「すごいですね!昔から漫画描かれてたんですか?!」という風に聞かれるのですが、
小学生の頃にノートに落書き漫画こそ描いていたものの、
実はマトモに描き始めたのは大人になってからで、
次男を産み落とす前後、32,3歳の頃のことでした…!
当時の絵はこんな感じで…↓(初めて描いたデジタルイラストです)
あっはっは!!
アイタタァ~~…!!![]()
![]()
……このように、
小学生レベルのまま、20年間な~~んにもやってなかったという事がよくよくお分かり頂けることと思います
笑笑
そして、一番オソロシイのが自分自身が「この絵が下手クソである」という事に最初のうちはあまりピンと来ていないことなんですよねぇ。。。
怖い怖い![]()
![]()
とは言え、うすうす感づいてはいたので、他の絵師さん達の絵を見てみようと、pixiv等で様々な絵を見たところ…
自分の絵がずば抜けて下手クソであるということにようやく危機感を覚え、
そこから猛練習を始めます…!!![]()
![]()
そして一か月後には
このくらいまで描けるようになり……
5年後には
この位までは描けるようになりました!![]()
![]()
アシスタント仕事もしており、こんな感じのものを描いております!✨↓
この間、たくさんの師匠に様々なことを教わり…
辛酸をがぶ飲みしてぶっ倒れるような日もあれば、
仲間たちとアツい涙を流し合うこともあり……![]()
![]()
それまでの人生に比べても、とんでもなく濃厚でやりがいのある人生を歩ませて頂いてるなぁ…!と思っております![]()
![]()
そもそも小学生以来、絵も漫画も描いていなかった人間が、
何をきっかけに漫画家を目指すようになったのか…
どういう道のりを辿ってここまで来たのか…
詳細は、当ブログを一番最初から順番に読んで頂ければ伝わるかと思いますが、
それもなかなかに大変なことかと思いますので、
この記事で、私の漫画半生もまとめさせて頂きますね!![]()
![]()
ご興味のある方は引き続きお読み頂けましたら嬉しいです![]()
![]()
初めて漫画を描いた小学生時代
小学2年生頃、けろけろけろっぴの4コマ漫画を描いたのが、確か「初めての漫画」だったと思います。
その後も動物を擬人化させたような漫画を描いたり
※記憶による再現です笑 かなり本物と近いハズ![]()
両生類の大人がランドセル背負っているのは合ってるのでしょうか…笑笑
6年生に入った漫画クラブで
こちらの読み切り鉛筆漫画(32P)を描いたり…!
他にも、友達とキャラやお話をそれぞれ考えて合作や交換漫画のようなことをしたりして楽しんでいました![]()
![]()
……と言っても、飽きっぽかったのか根気がなかったのか、上の漫画クラブで描いたもの以外は、全部途中で終わっていました![]()
例えば…
※「放課後」の「課」が誤字ってますw
こちらの、「●田一少年の事件簿」の影響ゴリゴリに受けすぎ作品もですねぇ…
「とある島のミステリーツアーに参加してみたところ、実際に殺人が起こってしまう」…という話にしたかったと思うのですが…
島に着くどころか「こんなツアーがある」という告知が主人公に行われる「手前」で終わっていました
笑笑
ひどい……
何一つ始まっていない……笑笑笑
あと、「漫画の描き方」みたいな本は一通りチェックはしていて、
いっちょ前に「ケント紙」「製図用インク」「ペン軸」「ペン先(Gペン、カブラペン、丸ペン等)」「スクリーントーン」「雲形定規」などなどの道具は買い揃えてました!👀✨
さらには、友達のお兄様の部屋で「カラス口」なるマニアックな道具(コマ枠など、太い線を均一に引くための道具)を見つけ、拝み倒して譲って頂いたりもしました![]()
ただ、実際にケント紙に付けペンで絵を描いてみたところ…
「描っっっきにく……!!!
」
という感想が第一で、
根気のない私はマトモに漫画原稿を仕上げることはありませんでした![]()
![]()
カラス口を譲って下さった友達のお兄様に、今からでも土下座に伺いたいです🙇💦
漫画を描くのをやめてしまった理由
そんな私は、小学校6年生をピークに、徐々に漫画を描くことから遠ざかっていきます。
単に根気がなかった…というのも理由の一つですが、もう一つ、メンタル面で多大な影響を与える出来事がありました。
「与える出来事」と言いますか……「自分が自分に与えた」という、盛大な自爆行為だった訳なのですが…![]()
![]()
何が起きたかと言いますと、
思春期という、メンタルブレブレ期に突入した私は、たまたま気分の落ち込みが酷い日に、ノートにその時の気持ちを書き殴ってみたのです。
それが「詩」という形式だったのがまたこっぱずかしいんですが![]()
![]()
![]()
その詩に何が書かれていたかというと…
「漫画家になりたいなんて言ってるけど、そんなの叶いっこない」
「こんなに描くのが遅い私が、無理に決まっている」
……というような、ひたすらに自分を卑下する言葉がずらりと並んでいました。
そのノートを冷静に眺めては、「うんうん、そうだよ。間違いない…!」と、自分の思い込みに拍車をかけていきました。
いつしか、それは自分にとって「呪い」のように作用し、漫画からはどんどん遠ざかっていました。
小学校の卒業文集の「将来の夢」のページには「漫画家」ではなく「小説家」と書いてあります。
おそらく、その詩を書いた後のことだったのでしょう。「漫画家」は夢ではなく、「過去にあこがれていたことのある職業」の一つになっていました。
中学、高校と上がるにつれ、周囲の絵を描く人たちはどんどん上達していき、自分だけが小学生レベルの絵のまま。
高校生の時、漫画クラブの友達に、自分が切ったネームを基に漫画を描いてもらったことがあります。
その子は「天音ちゃんも自分で描いてみてもいいんじゃない?描けるよ」と言ってくれたのですが、私は「いやいや!下手クソだし、今からじゃとても無理だよ」と言っていたことを思い出します。すっかり絵については諦めていたのです。
一方、「小説家」志望だと卒業アルバムに書いていたので、お話作りの方はどうだったかと言いますと…。
高校生当時、私は演劇クラブに入っていたのですが、その時、役者をやっているメンバーは私以外、全員オリジナル脚本を書いていたのですが、私だけはお話を作り上げることもできませんでした。
情けないことに、絵を描くのも話を作るのも、当時の私にとって、とてもハードルの高いものになっていました。
大人になり、漫画のことなど忘れていた、ある日…
その後、大学でも演劇に打ち込み(あくまで「仕事にするようなものではなく、一時的な趣味のようなもの」と割り切っていました)、卒業後は地元の小さな会社に就職しました。
営業をしたり、製造現場のリーダーを任されたり、リーマンショックのあおりをもろに受けて、気付けば箱根のホテルで皿洗いの現場に行かされたりもしました。
そうこうしてるうちに、大学4年の頃から付き合っていた彼と結婚を決め、サービス残業で21時や22時まで働き通しだった会社を辞め、友達のやっていたエステの業界に飛び込んだりもしました。
長男が生まれ、子どもをサロンに一緒に連れてくるような形でも働かせてくれたエステのお仕事でしたが、うまく売上を上げることが出来ず、こちらも退職。
その後、子どもを保育園に預け、倉庫や工場で働きました。
工場は簡単な検査のお仕事だったのですが、シンプルな分、いかに手際よく素早く動くかがカギになるようなお仕事で、動きがもたもたしている私は「使えない」というレッテルを貼られ、年下の先輩に嫌味を言われながら働く日々でした。
そんな折、2人目を妊娠し、臨月にお仕事は産休・育休期間に入りました。
上の子は引き続き保育園で見て貰うことができ、母が家事なども時々手伝いに来てくれて、私は社会人になってから初めて、ぽっかりと空いた「何もしなくてもいい時間」というものを手に入れました。
「何をしよう?何がしたい?」と自分に問いかけてみて、帰ってきた答えは「漫画を思いっきり読みたい」というものでした。
そこで、主人のおすすめの漫画アプリをダウンロードして、片っ端から読んでいきました。
そのアプリはいわゆる王道路線というよりは、かなり尖った個性の、一風変わった武器を持つ漫画家さん達がたくさんいて、一つ一つの世界観にどっぷりのめり込んでいきました。
そんなある日、とある漫画家さんのあとがきに、
「PCで漫画が描ける時代になってなかったら、私は漫画家になっていなかったと思います」という一文を見つけ、
「今、漫画ってパソコンで描けるの…?!」
と驚き、色々調べました。
分かったのは、今の漫画はPCと専用のソフトとタブレットさえあれば描けること。しかも、何度もペン入れをやり直せたり、トーンを貼るのがとても簡単にできたり、果ては集中線を自動で入れることもできる…ということを知りました。
私は、実はデジタル大好き人間で、エクセルの使い方を最初の会社で覚えてからというもの、エステ時代に「ノートに手書きで顧客一覧を作って」などと言われた時にものすごく抵抗感があるほど、「あとからいくらでもやり直しがきくデジタルツール」というものが大好きでした。
漫画も同じように描ける……という事を知ったことで、
「今からでも、いや、今だからこそ、改めて漫画を描いてみたい…!」という思いがふつふつと湧き上がってきたのでした。
昔だったらすぐ投げ出していたお話作りも、大人になって色々な経験をしたり、様々な作品に触れたりした今だったら、もしかしたら根気強く向き合えるかもしれない…!大人になった自分が全力でやってみたら、一体どこまでできるんだろう…?!と、自分を試してみたい気持ちもありました。
子育てと並行してのネーム制作
そうこうしてるうちに無事次男を出産し、幸い次男は比較的おとなしく良く寝てくれて、夜泣きも長男よりかなり少ないタイプの子だったため、「この子が寝ている間に、少しずつでも漫画を描いていこう!」と決意しました。デジタルツールを購入する前に、まずは育休中にネームを一本仕上げてみよう!と思い立ち、二十年ぶりくらいにお話やキャラクターなどを考え、ネームに起こしていきました。
ああでもない、こうでもないと悩みながらも紙にキャラクター達の命が吹き込まれていく作業はとても楽しいものでした。
そして、「ネームでも応募できる漫画賞」の存在を知り、その締め切り日を目標に、早朝4時起きするなどして製作を進めました。
最終的には105Pものボリュームになってしまいましたが、出版社にネームのコピーをどっさり詰め込んだ封筒を送った時、なんとも言えない達成感に包まれたのを覚えています。
※この頃のことは、こちらの記事に詳しく書いてあります!↓
色々と粗削りな初作品なので、当然受賞どうこうという話にはならず。
とは言え、漫画賞の締め切りのおかげで、予定より早めにネームを一本完成させることができたので、いよいよPCやソフト、液晶タブレットを購入し、デジタルでの作画環境を整えていきました。
画力アップや漫画の描き方を学ぶ日々
タブレットで初めて絵を描いて、その絵が非常に下手クソであることにようやく気付いた…という話は冒頭にしましたね![]()
![]()
それから、色々な本やお絵描きサイトなどを読み漁り、トレースや模写練習に明け暮れたり、デジタルイラストの描き方を教えてもらえる有料コミュニティに参加したりして、徐々にイラストの描き方のコツを押さえていきました。
また、漫画の描き方をメールのやり取りで教えて頂ける漫画スクールにも申し込み、前に描いた105Pのネームを32Pに縮めて、原稿化する作業にアドバイスを頂いたりしました。
お恥ずかしいことに、最初のうちは原稿用紙の使い方から間違っていたりして、そういった基礎の基礎から教えて頂けるのは大変勉強になりました。
また、この頃からブログを書き始め(当ブログです)、教わったことをシェアしたりしていくうちに、少しずつ漫画描き仲間が増えていきました。
意外なことに、「主婦だけど漫画家志望です」という、私と似たような境遇の仲間がたくさんいたことに驚かされ、また同時にとても勇気をもらいました。
そして育休が明け、日中は仕事、夜は家事に明け暮れながらも、夜は子どもと一緒に早く寝て、翌朝早朝4時起きして漫画を描いて、子どもを起こす時間になったら日常に戻る……というサイクルで、どうにか仕事と主婦業と漫活を並行していました。
サークル結成、そして初めての脱稿
ブログをきっかけに、漫画家志望仲間はもちろん、既に漫画家として活躍されている方や、絵の講師の先生とも繋がりができ、色々な情報やアドバイスを共有していただくことができ、漫画を描くことがどんどん楽しくなっていきました。
そして、漫画家や絵の講師の先生から「お互い励まし合い、高め合える漫画家(志望)仲間のコミュニティは持っておくといいよ!」と何度もお勧めいただいたこともあり、ブログでコミュニティメンバーを募集してみました。
幸い何人かが積極的に手を挙げてくれたり、私が口説き落としたりして、漫画家志望女子のコミュニティサークルができました!
そのサークルで画力アップにつながりそうなイベントを企画したり、普段から情報共有をしたり、作業しながらオンライン通話で他愛もないおしゃべりをしたり、時には仕事を紹介し合ったり…といった具合に、仲間との絆をどんどん深めていきました。
担当さんがついたり、連載が始まったりした仲間がいれば自分のことのように全力で喜び合い、また辛い時にも全力で耳を傾けて相談に乗ったり…といった具合に、もはや家族以上に大切に思える仲間たちとなりました。
その後さらに仲間も増え、今では年に一度「合同誌」を発行し、同人誌即売会で販売するようにもなりました。
私にとってなくてはならない仲間たちです。
そして、そんな仲間たちの支えもあって、私はついに初めての原稿を脱稿するに至りました。
出張編集部で受けた洗礼
脱稿した翌日、初めて出来上がった原稿を手に、緊張しながら向かった先は、「コミティア」という同人誌即売会の時に同時に行われる「出張編集部」の会場でした。
様々な漫画媒体の編集者が一堂に会し、漫画家志望者が自分の原稿を手に各ブースを回り、一日で多くの編集部の方に原稿を見て貰い、アドバイスを頂ける…という、とても貴重な機会でした。
見込みがある方はその場で編集者に「担当さん」になってもらうということもできるので、編集者から「名刺を頂ける」ことを目標に、漫画家志望者はドキドキしながら各ブースを回ります。
私も、ドキドキしながら初原稿を手にブースを回りました。
初めての原稿という事で優しい言葉をかけて下さる編集者の方もいらっしゃいましたが、あちこち回るにつれ、編集者の言葉はどんどん鋭くなっていきました。
最終的に某編集部では、けちょんけちょんにこきおろされてしまいました。
表紙を見るなり「仕事じゃなかったら次のページをめくりたくない」から始まり、
「絵も話も古すぎる」
「主人公が独善的すぎて、僕はこの主人公大嫌いです」
「いいトシなのに、こんなの描き続けているようじゃとても無理ですよ」
等々……。心臓をドリルでえぐられるかのようなダメージを受けました。
自分の生み出した作品やキャラクターは、自分の子どもと同じように愛おしいものですし、さらに言うなら自分自身の分身でもあります。
その自分の子どもを、ひいては自分自身を、生まれ落ちた翌日に存在から完全否定されてしまい、逃げるようにその場を後にし、足を引きずるように駅に向かいました。
駅のホームで、そのまま線路に飛び込んでしまおうか……とも一瞬頭をよぎりましたが、駅には転落防止用のゲートがあったため、物理的に実行は不可能でした。
もちろん、たとえゲートがなかったとしても、本当の可愛い子どもたちのためにも実行には移さなかったと思います。ただ、その時のぽっかり空いたような胸の痛みは、今でもよく覚えています。
仲間やブログの読者様からの励まし
帰りの電車の中で、サークル仲間に事の顛末を書き込み伝えました。
「大丈夫?!良かったら話聞くよ?!」と声をかけてくれた仲間たちの厚意に甘え、
家の最寄り駅から通話をつないで話を聞いてもらいました。
思わず泣きじゃくってしまった私に、仲間達は一緒に悔しがってくれました。
「天音さん、時間がない中あんなに頑張っていたのに…!全校集会のたくさんのモブまで一人ひとり丁寧に描いていたし、デッサン狂いがないか、一コマずつ丁寧に検証もしてたのに…私も悔しい…!」
「ありがとう…。商業の壁はそれだけ厚い、ってことだよね。。。」
「くそ~~!!商業め~~!!」
今思い返すと、少しクスッと笑ってしまうようなやり取りでもありますが、こうやって寄り添ってくれる仲間がいてくれたおかげで、私は筆を折らずにやってこれていると、今でも本当に感謝しています。
そして、寄り添ってくれたのはサークル仲間だけではありませんでした。
翌日、事の顛末と新たな決意を震える手でブログに綴ったところ、
たくさんのブログ読者さんが励ましの言葉をコメントして下さいました。
一緒に悔しがって下さった方、応援してくださった方……
特に嬉しかったのが、既に連載を始められていた漫画家さんからのお言葉…!「初めての原稿ですもの!突っ込まれてしまうのはある意味当然!私だって最初は酷いものでしたよ![]()
ここから少しずつ慣れて行って、良くしていけばいいんです!応援しています!」
とのこと…!(ノД`)・゜・。
確かに、初めてなんだから至らないのは至極当然のこと。
その言葉で、ようやく少し気持ちを前向きに持って行くことができました。
その時の記事がコチラです。↓
出張編集部のことも詳しく書いています![]()
工場仕事を辞め、アシスタント仕事開始!
若干時系列は前後しますが(初原稿脱稿前のことです)、この頃、私にとって人生のターニングポイントともいうべき、大きな変化がありました…!
それは、「それまで勤めていた工場を辞め、アシスタント仕事を始めること」でした…!
前項でお話した通り、当時の私は朝早起きすることで無理やり漫活時間の確保を図っていましたが、やはりその短い時間では限界がある…という部分を痛感していました。
漫画の進みも悪いうえ、睡眠不足によりお仕事にもよくない影響が出ていました。
完全にお仕事を辞めてしまうのは収入的に厳しいものがありましたし、
どうせお金を稼ぐなら、漫画に直結して、漫画スキルの底上げに繋がる仕事をしたい…!という思いから、アシスタントのお仕事というものも視野に入れていました。
とは言え、経験不足から二の足を踏んでいたのですが、ある時期工場でこれでもかとばかりに良くないことやミスが続き、会社に居づらくなるレベルにまでなってしまいました。
「これは、早く転職をしろということかもしれない…!」と思い、ダメ元でアシスタント先を探しました。
脱稿は未経験でしたが、幸い描き進めていた原稿がそのまま作画サンプルにもなったため、在宅でできるアシスタント先にあちこちに応募してみました。
幸い、奇跡的にある先生に使っていただくことが叶い、晴れて工場を辞め、プロの現場で色々と教わりながらスキルを磨いていくこととなります。
転職時のブログがこちら↓
その後、こちらの先生だけでなく、様々な先生にお世話になり、色々と鍛えていただきました。
一例↓
自分の作品を描くだけでは気付けなかったことや学べなかったことを、プロの先生の原稿に直接描いていくという経験により、本当にたくさん学ぶことができました(今も定期的にアシスタント仕事をしているので、現在進行形の方がいいかしら?!)。
先生方、いつも本当にありがとうございます!!![]()
![]()
学び、作品を描き、お仕事をして、今――
長くなってきましたので、その後の出来事をかいつまんでお話しますと…
・最初の持ち込みで沈んだ気持ちをやさしく包み込んでくれたのが、「東京ネームタンク」を運営するごとう先生の動画でした。その後、早速受講を決めた「東京ネームタンク」をはじめ、様々な漫画スクールや教本等で、日々漫画の知識やスキルを更新中です。
ネームタンクでは、3泊4日のネーム合宿にも参加しました!何より、合宿への参加を快諾してくれた主人・家族に感謝です。
・作品も描き続け、あの出張編集部で担当さんについて頂くこともできました!
↑こちらの記事で、WEBTOONのお仕事を始めた話もしております!![]()
漫画仲間からの紹介でお知り合いになった編集さんのもとでお仕事しております!
他にも、別アカウントでの漫画制作活動などもしつつ、まだまだ自分に足りないものがたくさんあることを痛感しながら、いつか自分自身の企画を自分自身の手で連載することを目標に日々頑張っております!
私の「漫画家になるまでの道のり」はまだ途中なので、物語も一旦中途半端なところで区切りますが、近いうち必ず!「目標を達成して、そこからの新たなスタート地点」としての物語を書いていきたいと思っておりますので、心の片隅で応援して頂けたら嬉しいです!
「やりたい事をやるのに、遅すぎるなんてことはない!!」というメッセージを、最後まで結果を伴って皆様にお伝えできるよう、引き続き頑張って参りますね!!![]()
![]()
長い一人語りを最後までお読みくださり、本当にありがとうございました!!![]()
![]()
2025年11月某日
みなみ天音




















