小学生の頃からうつ傾向

ASD/ADHD

そんな私のこどもたち(小学生)は不登校

就労継続支援を受ける私と

就学継続支援を受けるこども
たち

親子でゆっくりゆっくり歩く道




今回は自己紹介パート3になるかな?


前回は、「人間関係で特に苦手なこと」と言うテーマで『距離感』について触れました。


今回は、「距離感を広く取りたいと思う相手に対して自分の意思を明確に伝えることができない」という状況について書いていきます。


まず、どんな時に人と距離を取りたいと考え始めるか?について。


私の場合、自分もしくは自分と関わりのある他の誰かに対する批判的(私の基準)な言葉を繰り返し聞くようになり


その言葉やその発言主の姿形を無意識に何度も思い出して


不快な感覚を身体が味わうようになっている時がそうです。


二の腕の外側に悪寒を覚え、


心臓を覆っている辺りの皮膚が痒くなるような感覚。


コメカミは痺れるような痛みが響きます。



こんな感覚について、身に覚えのある人は多いと思いますし



私自身がきっかけでこの感覚を覚えた人、覚える人が


これまでも、これからも


いるかもそれません。(すみません...)




批判な意見が止まない時、


『ごめんなさい。ちょっと気持ちが辛くなってきてしまったので、その話題は一度終わりにして、次の話題に移っても良いですか?』




そうやって素直に願いを伝えられることが出来たら


自分の心の重石はきっと小さくなるのだろうけれど。



このような状況に置かれるたびに



『私はいま必要とされている』という優越感のようなものに浸ってみたり


『私は彼、彼女にとって心許せる真の友達でいられているんだ』という自己存在価値の確認であったり


『いま彼、彼女が分かち合ってくれる苦しみや痛みの記憶を受け取ることで、彼らの心が少しでも軽くなってくれたらいい』という自己犠牲的な考え方へ無意識に自分を誘導してしまっていることが殆どです。



人と一緒にいることで


その人から必要とされているという確認を取ることで


初めて自分がここに存在していいのだと考えているみたい。



だけど私は昔から


人の批判的な言葉共感を示そうとしたり


自分の持つ批判的な意見を人と共有しようとすると


自分の心がとんでもなく重たくなり


人間関係から距離を置きたくなるのです。





誰かがすぐ近くにいて


いっしょに協力しながら活動しているような場面でも


私は見えない分厚い壁で自分を覆って


静かに息を潜めています。




決して失言しないように。


自分を大嫌いにならないように。


自分の人生を心底憎み始めるのを避けるために。




次回は


この回で書ききれなかった側面を開示したいなと思います。



朝晩と冷え込みが厳しいですから


みなさん


暖かくしてお過ごしくださいね^^


では、また✳︎