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 毎日、暑いですね。10年ほど前から7月の最高気温が30℃後半まで上がるようになり、ひどい時は40℃を越えるようになりました。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)によれば、産業革命以来、石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料を燃やし続け、発生した二酸化炭素の濃度が増えた結果によるとのことです。

 二酸化炭素には温室効果があり、赤外線を吸収し気温を温めます。二酸化炭素がないと、地球は-14℃になりますが、大気中に0.02~0.04%存在し、温室効果により気温が20℃程度に保たれます。このことから、地球の二酸化炭素濃度をこれ以上あげないことが気候変動(地球温暖化)の対策となるわけです。

 

 ほとんどの気候科学者がこの理論に同意しています。現在の気候変動の原因が人由来の温室効果ガスによるものというのは、「疑う余地がない」となっています。眞鍋淑郎氏は気候モデルをシュミレーションして気候変動を予測し、ノーベル物理学賞を受賞しています。すでに科学的に原因が判明しています。

 

 気候変動を回避するためには化石燃料の使用低減が必要なのです。化石燃料の使用低減とは、産業革命以来、エネルギー源として使用してきた石炭、石油、天然ガスの使用を低減し、水力や太陽光、風力、地熱などの自然エネルギーや原子力発電へのシフト、すなわち脱炭素化をすることとなります。この脱炭素化はほぼ不可能と思います。かといって、このまま温室効果ガスを排出し続けると気温が上がっていき、地球で人が住めなくなると言われています。

 この気候変動(地球温暖化)に対して、人々はどう考えているのでしょうか。日本、欧州、米国なと地域によって考え方は異なります。日本の場合、ヤフーニュースのコメント投稿から判断すると、以下の3種に分けられます。

  1. 気候変動は事実であり、その原因は原因物質の人為的な温室効果ガス排出である。 
  2. 気候変動は事実であるが、その原因は自然現象である 。
  3. 気候変動は事実ではなく、よって原因も虚偽である 。

そして、気候変動に対する対応は 以下のようになります。

  1. 人為的な温室効果ガスが悪いのだから排出を抑えよう。 
  2. 気候変動は自然現象だから何をしても無駄である。
  3. 気候変動は事実ではないのだから何もしなくていい。

もはや宗教化している気候変動対応です。具体的にどのようなコメントがあるのでしょうか。

 

 「トランプ氏は、対気候変動投資をうたったバイデン前政権のインフレ抑制法(IRA)を骨抜きにする内容の減税法案を可決しました。これにより米国の二酸化炭素(CO2)排出量は今後10年で1割近く上積みされる可能性があります。」

このヤフーニュースに対するコメントはたくさんあります。

『欧米主導で始まったカーボンニュートラルは、ビジネスとは切っても切り離せない問題で、

科学的根拠も怪しいものである。 日本でも山林が伐採され、中国製の太陽光発電がところせましと設置され、

庶民は再エネ賦課金による高額な電気料金に悩まされている。トランプが全て正解とは思わないが、

日本のエネルギー施策も見直しをするべきではないか。』

 このコメントでは、太陽光発電をビジネスとして捉え、日本のエネルギー政策が間違っているとしています。太陽光発電自体は二酸化炭素を減らしませんが、化石燃料による発電から太陽光発電に置き換えることで、化石燃料使用量が低減され二酸化炭素排出量が減ります。

 

 山林が伐採されることに違和感を感じています。植物は二酸化炭素を吸収し酸素を排出しますが、吸収された炭化素は植物を形成するために使われます。簡単に言えば、植物は成長しないと二酸化炭素を消費しないのです。植物が成長を止めると二酸化炭素の吸収も止まります。光合成で二酸化炭素を吸収しますが、太陽が出ていない夜間は、酸素を吸って、二酸化炭素を排出するのです。山林を増やすことは二酸化炭素削減になりますが、化石燃料使用時の二酸化炭素排出量を到底カバーできるものではありません。

 

 このように説明しても、おそらく科学とビジネスが結託していると考え、科学を信じないでしょう。ここまでになると宗教なのです。

弥勒信仰

 弥勒菩薩は、仏陀(釈迦)入滅(死後)の56億7千万年後に世界に現われ、悟りを開き、人々を救済する未来仏です。弥勒菩薩が現れることを下生といいます。また、弥勒菩薩が修行している場所を兜率天といいます。兜率天などを含め、菩薩がいる場所のことを浄土といいます。

 

 中国では4世紀から6世紀にかけての北魏時代、これらのうち弥勒菩薩の信仰が盛んで、兜率天(弥勒浄土)へ往生することが多くの民衆の願いでした。兜率天へ往生することを上生といいます。これが朝鮮半島を経て日本に伝わったので、飛鳥時代当時の仏教は、朝鮮でも日本でも弥勒信仰が主流でした。

阿弥陀信仰

 中国では隋・唐の時代になると、兜率天から阿弥陀仏の極楽浄土に対する信仰になりました。日本も同様に平安時代から徐々に阿弥陀信仰が優勢になります。阿弥陀仏(阿弥陀如来)は、過去に法蔵菩薩として48誓願を立てて修行をしました。修行後、法蔵菩薩は阿弥陀仏となり、西方極楽浄土に住んで衆生を救済します。48の誓願の第18願は「阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できる」というものです。

 

 弥勒信仰から阿弥陀信仰に変わった理由は不明ですが、兜率天へ往くには座禅など修業が必要だったのに対し、極楽浄土へ往くには阿弥陀仏に頼り、念仏を唱えるだけでよかったからかもしれません。

浄土信仰

 弥勒信仰と阿弥陀信仰は、ともに浄土往生を求めるという点で類似しています。中国の南北朝時代までは、人々にとって両者の区別は明確ではなかったと言われています。北魏時代は弥勒信仰が盛んであり、国家をあげて弥勒菩薩の巨大な磨崖仏を龍門石窟に刻まれたりしました。比丘尼法慶の造像記では、父母や先祖のため弥勒菩薩像を作り、仏像を造った功徳により西方浄土に生まれてることが願われてます。西方浄土と弥勒下生が同時におこなわれています。

 

 日本では黄泉の国や根の国、常世国などの死後の他界観がもともとありました。この他界に対する観念が浄土と結びつき、仏教思想と習合していきます。すなわち、死んだときの苦しみを和らげるため鎮魂することにより荒魂(アラタマ)から和魂(ニギタマ)に変わるとされていたのが、死んだときの罪業を読経、造像などにより消し去ることで地獄から浄土へと往生すると考えられるようになったのです。

 

 浄土は阿弥陀如来(阿弥陀仏)の「西方極楽浄土」、弥勒菩薩の「兜率天(とそつてん)」あるいは「弥勒浄土」以外にも、薬師如来(薬師仏)の「東方浄瑠璃浄土」、大日如来の「密厳浄土」、阿閦仏(あしゆくぶつ)の「妙喜浄土」、毘盧遮那仏の「蓮華蔵世界」、釈迦如来の「霊山浄土」、観世音菩薩の「補陀落(ふだらく)浄土」などがあります。これらの細分化は後の時代の産物であり、仏教伝来当時は弥勒の兜率天、阿弥陀仏の西方極楽浄土が主流だったのでしょう。

地蔵信仰

 阿弥陀信仰では極楽浄土を夢見て平等院鳳凰堂などが建てられましたが、極楽浄土に行けるのは貴族などに限られ、殺生を日常的におこなう庶民は地獄に落ちると考えられていました。地蔵菩薩は地蔵を信じる人々のために地獄での苦悩を代わりに受ける代受苦をおこなうため、地蔵信仰が人気を得ました。平安時代は、貴族の阿弥陀如来、庶民の地蔵菩薩という二重構造がありました。仏教では、アビダルマ哲学や空論などの教学への傾倒も大切ですが、信仰する主体、すなわちどのような身分、境遇の人々が信仰していたかも重要です。

初午詣の詳細

 伏見稲荷大社には初午大祭(はつうまたいさい)という行事があります。和銅4年(711年)2月の初午の日に、稲荷山の三ヶ峰に稲荷大神が初めて鎮座したことにちなむ神事です。全国にある稲荷社でもお祭りをしている神社があると思います。

 

 実は、初午の行事を「祭」と称したのは、近世になってからで、奈良、平安時代にこの行事をお祭りと称したのは神社関係者だけでした。本来は『初午稲荷詣』で、お祭りではないのです。お祭りというのは参拝者が居ても居なくても実行する儀式であり、詣は、お祭りがされていようがされてなかろうが関係なく、神社に参拝することです。

 

 紀貫之が「延喜6年、月次の御屏風八帖の料の歌、宣旨にてこれをたてまつる十首」の題に「二月初午いなりまうてしたるところ」とするのをはじめ「二月はつむまいなりもうて」「二月初午稲荷の社にまうつる人に」「きさらきのはつむまに、いなりへまうつるみちに、田つくるをみて」となっており、初午祭り・初午まつりにはなっていません。

 

 『延喜式神名帳頭註』所引『山城国風土記』逸文によれば、祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)で、父神はスサノオ、母神は大山祇神(オオヤマヅミノカミ)の女である大市姫(オオイチヒメ)であるとされ、三神ともに祀られています。また、餅と白鳥の縁起も書かれていますが、近年の研究では、7世紀に作られた風土記の逸文ではなく、平安時代中期以降に作られて広まったものが、「風土記の逸文」とされ、室町期に集大成されたことがわかりました。

 

 稲荷神の初見は、9世紀半ばの淳和朝で、『類従国史』巻34帝王14、天皇不予の天長四年(827年)正月辛巳条には、前年末から淳和天皇が体調を崩したことが記されています。占わせたところ、稲荷神社の木を伐採した祟りであると判明しました。嵯峨天皇が御願寺の塔に用いるため、東寺が切り出したのでありましたが、淳和天皇に祟ったのです。そこで従五位下という神階を与えたところ、淳和天皇はたちまち回復したそうです。稲荷山の木は、しるしの木など、重要だったみたいですね。

 

また平安期の文学作品『蜻蛉日記』『枕草子』『更級日記』『大鏡』に稲荷詣が描かれています。

 

『蜻蛉日記』には、藤原道綱の母が、藤原兼家の訪問を祈願して、稲荷と賀茂に参詣したことを記しています。そこでは「下の御社」、「中の」、「はての」の上中下3社に、幣(ぬさ)に歌を書いて奉納しました。このことから、稲荷詣では山頂付近の3社まで登っていたこと、稲荷社は上中下の3社に分かれていたことが分かります。歌の中には「しるしの杉」があり、平安時代には「樹」が願掛けの対象となっていたこともわかります。

 

 『枕草子』152段「うらやましげなるもの」には、稲荷詣の山の昇降が体力的にきついのに、追い越していく人がうらやましいと記されています。一度でこりごりと思っているのに、7回も参詣したと自慢しているのには驚かされると言っています。初午の日の混雑の中で、イライラしているときに、涼しい顔で何度も参詣を繰りしている人をうらやましいと感じています。このことから稲荷詣は山の頂まで登っていたことがわかります。

 

 『大鏡』にも、稲荷詣が描かれていて、藤原媓子は、稲荷詣の旧坂で大変きつそうにされていたが、気品が満ちていたと記されています。また、大宅世継父子の稲荷詣でが描かれていて、世継が子供の頃、父親と共に稲荷詣したが、坂で疲労困憊して、その日のうちには帰れられず、翌日帰宅すると、自宅の周辺は大騒ぎになっていたそうです。初午の稲荷詣は、大混雑で誰でも疲弊するので体力勝負だったのです。

 

 このように奈良・平安時代では、初午の稲荷詣は、お祭りではなく、当時の参詣道である、東福寺~御膳谷~三峰と進む体力勝負の参拝だったのです。

初午が稲荷固有の行事ではないこと

 民俗学辞典には、「二月のはじめの午の日を祭り、また休み日とするのは、全国的だが、必ずしも稲荷の祭日とは限られない。日取りも地方によって異なり、赤木山麓では十一月に初午があり、奄美大島では四月の牛の日をこう呼んでいる。」と書いてあります。

 

 全国に初午の習慣があります。初午粉といって、米の粉を神に供え、大麦、小麦、早稲葉、木炭、髪の毛等を合わせて7種を神に包んで、唱えごとをして川に流すと、髪の毛が伸びるという習わしが肥前にあります。

 

 飛騨高山では初午の日に茶は飲まないそうですが、因幡八頭郡でも、この日に茶釜を洗って中を乾かすと、小遣銭には不自由しなくなるそうです。

 

 長野県では、二月初午の日に、蚕の神の祭をします。蚕玉の字が刻まれた石碑が立っている所があり、下伊那郡では、その前に粟穂や繭形の団子を供えます。長崎県壱岐(いき)島では、世上祭(せじょうまつり)といって初午に豊作を祈ります。仔牛を持った家は、牝牛には一升、牡には五合の酒を出して、講中の組織(村組)に披露するそうです。

 

 このように初午の行事は稲荷とはあまり関係がない行事なのです。初午は、むしろ農事が忙しくなる初めに当たって、田の神を迎えて祀り、耕作で働く馬を一日遊ばせたりする行事であったと言われています。

 

 

 

 

 

 

 伏見稲荷大社の原初の形式を解明している近藤喜博氏の説を紹介します。この説では秦氏の伊奈利社と荷田氏の稲荷社が別々に存在しており、平安後期になり稲荷社へと統一されたとしています。

 

 初午(はつうま)は稲荷大神とつながりがあり、2月の午(うま)の日に稲荷大神を祭る行事が行われます。もともと初午は稲荷神社に特有の行事ではなく、田の神を祀る神社であればどこでも実施されていた行事と考えられます。山の神と馬との関係を示すものは全国に存在し、全国にある駒ヶ岳や神馬奉納などたくさんあります。馬は山の神の乗り物とされており、初午は山の神を馬で迎え、田の神として祀ることにより豊穣を祈る祭りと考えられます。

 

 現在は稲荷大社の裏手から稲荷山に登りますが、奈良・平安時代の初午詣での人々は、東福寺あたりから御膳谷に出て、イナリ山三峰に詣でていました。いまでも細い道が御膳谷へ通じており、ミユキミチと呼ばれています。東福寺方面の氏子は秦氏関連であり、深草の荷田氏関連の氏子とは異なっていました。

 

 一方、荷田氏の藤森神社は御田社とも言われ、現在の祭神とは異なりますが、もとは田の神を祀っていました。また、昔は、現在、伏見稲荷大社がある地に鎮座しており、早くから山の神が里に下り田の神となった稲荷神を勧請、祭祀する場所である考えられていました。空海や東寺と結びついた稲荷翁を祀る東寺杣山(そやま)の麓はこの地であると推定されています。そして稲を荷う老翁は、稲を荷って新嘗や秋の収穫祭に奉仕する姿であり、これは穀物の霊と考えられます。この霊は竜頭太とも習合しました。

 

 秦氏に関連する人々は、イナリ山を伊奈利山と呼んでおり、荷田氏の稲荷山とは異なります。これが稲荷に統一されるのは平安時代後期になってからで、秦氏と荷田氏が協力し合った頃と考えられています。

 

この説を詳細に説明するために、以下の事について述べていこうと思います。

  • 初午詣の詳細
  • 初午が稲荷固有の行事ではないこと
  • 山の神、田の神と初午の関係
  • 山の神と馬との関係

 

 

 

 

 
 

 

 伏見稲荷の創建縁起は2種類あります。秦伊侶具による山城国風土記のものと、竜頭太による弘法大師との出会いの縁起です。どうして、1つの神社に2つの縁起があるのでしょうか。その謎を解く前に2つの縁起を見てみましょう。

①    秦伊侶具の山城国風土記縁起

この縁起は以下のようなものです。

 秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)などの遠い祖先の秦伊侶具は、稲作によって富を得ました。餅を的にして矢を射ると、餅が白鳥に変わり、山の峰まで飛んでいき、そに降りると稲に成ったので、これを社名としたのです。後に子孫は餅を的としたことを反省して社の木を抜き家に植えて祀りました。木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないといわれます。

イナリはもともと伊奈利でしたが、淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔(類聚国史)で初めて稲荷が用いられました。

②    竜頭太の弘法大師との出会い縁起

東寺などに伝わる文献では、空海との出会いが伝承されています。稲荷大明神流記には以下のように記されています。

 弘仁7年(816年)4月頃、紀州国熊野で修行中の空海(弘法大師)は田辺で常人とは思えない老翁に出会いました。身の丈は八尺(2.3m)、立派な体つきで威厳が感じられるが、それを表に出さない顔立ちでした。老翁は空海に会えたことを喜んで言いました。「私は、以前、あなた(空海)に会ったことがある神である。あなたには威徳がある。ともに修行して弟子となるがよい。」空海は答えます。「霊山で会った時の約束は覚えています。私は密教を広めたいです。仏法で守ってくださるようお願いします。京都九条に東寺があり、ここで私は国家を護るため密教を興します。この寺で待ちますので、必ずお越しください」。こう語りあって約束を交わしました。

 弘仁14年(823年)正月19日、空海は東寺に真言宗の道場を開きました。同年4月13日、紀州の神が東寺の南門にやってきました。神は、椙(すぎ)の葉を持ち、稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れていました。空海は、大喜びで一行をもてなしました。しばらく一行は八条二階の柴守(しばのかみ)の家にとどまりました。その間、空海は東寺の杣(すぎ)山に17日間祈祷し神を鎮めました。

また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』には以下のようなことが書かれています。

100年前の、和銅年間から竜頭太という者が稲荷山の麓に住んでいました。昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていました。その顔は龍のようでした。頭の上に光放つものがあり、夜でも昼のように明るかったです。姓は荷田、名は竜頭太といいました。これは稲を背負っていたからといいます。(中略)空海は、その顔を面に写し、

神体として祀りました。それからは収穫が絶えることがなくなりました。この面は東寺の竃戸殿に祀ってあります。

神奈備山としての稲荷山

 伏見稲荷は、もともと農耕神であるから、この社の起源は、京都付近に農民が住みつき、田畑が耕作し始めた時代にさかのぼることができます。おそらく紀元前後でしょう。

 

 稲荷山の西方に広がる扇状地と、それに続く沖積平野にまたがる場所で、弥生中期時代の農業の様子を示す遺物が多数発見されました。木製の鍬(くわ)・鋤(すき)椀などの日用品、斧などの石器、壺や甕などの土器、焼けた米も発見されました。これは深草遺跡と言われています。深草では京都盆地の中で最も早くから稲作が始まったと考えられています。

 

 稲荷山山麓から西側の斜面には20基以上の古墳が点在しており、稲荷山古墳群と言われています。これらの古墳は深草地域の首長のものでしょう。また稲荷山は神奈備山としても知られ、山中には磐座や祭祀の跡が見つかっています。これらの古墳は深草にもともと住んでいた荷田氏の祖先のものと考えられています。

秦氏の伊奈利と荷田氏の藤尾社

 ここに渡来人の秦氏が移住してきて、養蚕・機織りで富をなしました。秦氏も荷田氏と同様に稲荷山を神奈備として拝みました。この富によって稲荷山に社殿を築きます。これが伊奈利社で、後の伏見稲荷大社です。同じく荷田氏も稲荷山に社殿を築きます。これが藤尾社で、空海と出会った老翁が稲荷大明神として鎮座した東寺杣(すぎ)山です。

 

 後に稲荷山の三ヶ峰にあった社(現在の上之社神蹟・中之社神蹟・下之社神蹟)を現在の伏見稲荷大社がある場所へ遷した際、もともとあった藤尾社を藤森神社の場所に移しました。実にややこしいのです。

 

 

 

 

 

 

窟(いわや)の熊野とは花の窟のことです。 

 

日本書記には以下のように書かれています。

一書曰、伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。

故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。

土俗、祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣。

 

別の言い伝え(第五)によれば、イザナミが火の神を生むときに、体を焼かれてお亡くなりになった。
それで紀伊国熊野の有馬村に葬った。
土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓、笛、旗をもって歌舞してお祭りする。

イザナミが火の神を産んだとき、灼かれて死にました。紀伊国熊野の有馬村に葬られたと書かれています。また、土俗(くにびと)の祭りとして、イザナミの魂を祀るため、花と鼓吹幡旗(つづみふえはた)で歌い舞ったとされています。ここにも死の国である熊野の死者信仰が表れています。

 

 平安中期の修行僧である増基法師の紀行文「いほぬし」から、花の窟に対する記述を抜き出すと以下のようになります。

 この浜の人、花の窟の元までつきぬ。見れば、やがて岩屋の山なる中を穿がちて、経を籠め奉りたるなりけり。これは弥勒ほとけの出給はむ世に、取り出奉らむとする経なり。(中略)卒塔婆の苔に埋づもれたるなどあり。傍らに王子の岩屋といふありけり。

 この一文にはイザナミの墓という記述はなく、経を埋める埋経の霊場であり、死者を供養する卒塔婆があり、傍らに王子があったことを記すのみである。平安中期はまだイザナミの墓となっていなかったわけです。

 

 大般若鼻に行くと、無数の洞窟が見られ、記紀神話の黄泉の穴のようであり、他界へ行く入り口の穴としての伝承があったのではないかと推定されます。

 

 窟の熊野ではありませんが、日本書紀にはもう一か所、熊野が登場します。それは神武東征の場面です。

 

 神武天皇はヤマトに入るにあたり、最初は河内から山越えを試みますが、長髄彦の抵抗にあい茅渟海から南下して紀伊熊野に向かいます。熊野の神邑(みわむら)に入った神武天皇は、ゴトビキ岩がある天磐盾(あまのいわたて) に登った後、海上を進みます。ここで暴風にあい、稲飯命と三毛入野命の二人の兄を失うことになります。この二人の兄は海に入りまさに常世に渡ったのです。

 

 さらに、日本書紀では討伐された丹敷戸畔(古事記では大熊)の毒気にあてられ、軍勢は力を失ってしまいますが、熊野の高倉下が夢の中で得た武甕雷神の剣を神武に献上したことで、軍勢は活気を戻します。その後、八咫烏が高天原から送られ、八咫烏に導かれて、吉野へと向かうのです。

 

 神武天皇がこのような熊野・吉野経由で大和入りを行ったのは、紀伊国熊野は常世国や根の国の思想を有しており、出雲と同様に、当時は大和政権に敵対する思想・概念と見なされていたため、これらを克服する必要があったと考えられています。八咫烏はまた、当時の神倉修験、または阿須賀修験の山伏ではないかと考えられています。

 

 

 

 

 

 今回は海の熊野を見ていきます。

 

 海の熊野とは那智と新宮のことです。熊野の南には熊野灘、太平洋が広がっており、東、西、南と三方を海に囲まれた熊野は、澄み切った海岸を持ち、島と巌かおりなす海国となっています。

 

 折口信夫は、「妣が国へ・常世へ」という論文で以下のように記しています。

 十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、

 

 

 

 

かつては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。

 五来重は、熊野をノスタルジアの対象として、熊野が常世へ向かう海洋宗教の聖地と理解しました。そして、日本人の海の生活に根ざした海の宗教全般を「海洋宗教」として名付けました。

 熊野の隣の伊勢国は、熊野と同じく海に関係が深いです。「伊勢国号」に、「古語に、神風の伊勢の国、常世の浪寄する国」とあります。この伝承では、古代の伊勢は常世の国から波が打ち寄せる地域と言っています。つまり、伊勢も熊野も常世国への入り口なのです。

『伊勢国風土記』逸文にはイセツヒコの国譲り伝承が記されています。

 伊勢津彦神(イセツヒコ)は、大和の神武天皇によって派遣された天日別命(アメノヒワケ)に国土を渡すように要求されました。が、長く先住していたことを理由に断っていました。最終的にアメノヒワケが攻勢の準備を整えると、恐れたイセツヒコは東方へ避退する旨をアメノヒワケに伝えた。するとアメノヒワケに「伊勢を去ることをどのように証明するのか」と問われました。イセツヒコは「強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行く」と誓い、夜の内に東方へと去っていきました。のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って、伊勢国としたのです。

 これを見ると常世国は、ノスタルジアの対象のような理想郷ではなく、退去する場所になっていますが、死のイメージも有しています。つまり、常世国は海の彼方にある死のイメージを有する国なのです。

 

 京都から熊野三山までの参拝路には約2キロメートルごとに王子と呼ばれる小詞が設けられ、それを総称して九十九王子と言われました。以下に大坂から熊野までの王子を記します。

1.窪津 2.坂口 3.郡戸 4.上野 5.阿倍 6.津守 (以上、大阪市)7.堺 8.大鳥新 (以上、堺市)

9.篠田 10. 平松 11. 井ノ口 (以上、和泉市)12. 池田 (岸和田市)

13. 麻生川 14. 近木 15. 鞍持 (以上、貝塚市)16. 鶴原 17. 佐野 18. 樫井(籾井) (以上、泉佐野市)

19. 厩戸 20. 信達一ノ瀬 21. 長岡 (以上、泉南市)22. 地蔵堂 23. 馬目 (以上、阪南市) 

24. 中山 25. 山口 26. 川辺 27. 中村 28. 吐前(吐崎) 29. 川端

30. 和佐 31. 平緒 32. 奈久知 (以上、和歌山市)33. 松坂 34. 松代 35. 菩提房 36. 藤代 (以上、海南市)

37. 藤白塔下 38. 橘本 39. 所坂 40. 一壷 (以上、下津町)41. 蕪坂塔下 42. 山口 43. 糸我 (以上、有田市)

44. 逆川 45. 久米崎 (以上、湯浅町)46. 津兼(井関) 47. 河瀬 48. 東の馬留 (以上、広川町)

49. 沓掛 50. 西の馬留 51. 内ノ畑 52. 高家 53. 小中 54. 比井 (以上、日高町)

55. 松原 (美浜町)56. 善童子 57. 愛徳山 58. 九海士 59. 岩内 60. 塩屋 61. 上野 (以上、御坊市)

62. 津井(叶) 63. 斑鳩(富の川) 64. 切目 65. 切目中山 (以上、印南町)

66. 岩代 67. 千里 68. 三鍋 69. 芳養 70. 出立 71. 秋津 72. 万呂 73. 三栖 (以上、田辺市)

74. 八上 75. 稲葉根 76. 一ノ瀬 (以上、上富田町)77. 鮎川 (大塔村)

78. 滝尻 79. 不寝 80. 大門 81. 十丈 82. 大坂本 83. 近露 84. 比曽原 85. 継桜 86. 中ノ河 87. 小広

88. 熊瀬川 89. 岩神 90. 湯川 (以上、中辺路町)

91. 猪鼻 92. 発心門 93. 水呑 94. 伏拝 95. 祓戸 96. 湯ノ峯 (以上、本宮町)

97. 浜 98. 佐野 (以上、新宮市)

99. 浜の宮 100. 市野々 101. 多富気 (以上、那智勝浦町)

 藤代から海岸線沿いに南下し、田辺から山中に入り熊野本宮に至るルートを中辺路と言います。この中で藤代、切目、稲葉根、滝尻、発心門を五体王子と名付けて重要視されました。上皇の熊野詣において、五体王子では必ず宿泊され歌会などが催されました。中辺路の王子は、この世と他界を結ぶ境界をなす聖所にされる場所に設けられている場合が多く、旅人が幣(ぬさ)などを手向けて道中の安全を祈る場所でした。

 

 中辺路に対して、田辺から海岸線沿いに進み那智、新宮に至るルートを大辺路と言います。大辺路の阿須賀王子は有名で、新宮の摂社となっている阿須賀神社(新宮市阿須賀)にあります。熊野川の河口付近にあり、近くには標高約50メートルくらいの蓬莱山があります。もともとは海中の島であったと伝わっており、徐福伝承など海から来る神が最初に祀られるにふさわしい位置と山容を持っています。つまり海洋宗教の聖地と言えます。

 

 同様に浜の宮王子も有名で、熊野三所大神社(東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮)や補陀落山寺付近にありました。古い絵画には浜にあり、鳥居の前は海となっています。ここは補陀落渡海がおこなわれた浜であり、また神武東征神話での上陸地ともされています。

 

 阿須賀王子、浜の宮王子など大辺路を通る海岸部の王子は、熊野三所権現成立以前からあった、「常世」を拝する場所でした。海の彼方、死者の霊が往く世界であると信じられた常世を信仰対象とする海洋宗教の聖地だったのです。ここに山の熊野とは別の海の熊野という一面が見られるのです。

 

 

 

 

 

 熊野三山(くまのさんざん)とは、紀伊半島南部、熊野にある、本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の3つの聖地をまとめていう場合の総称です。


 本宮とは熊野本宮大社のことで、和歌山県東牟婁(むろ)郡本宮町に鎮座し、主神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)です。家都御子大神とも言います。延喜式神名帳では野坐神社(くまのにいますじんじゃ)とあります。

 

 新宮は熊野速玉大社のことで、和歌山県新宮市に鎮座し、主神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)。延喜式神名帳では熊野速玉神社となっています。

 

 那智は熊野那智大社のことで、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に鎮座し、主神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)です。熊野結大神とも言います。

 

 本宮はもともとは熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲に鎮座していました。明治22年(1889年)の大水害により被害を受けて近くの高台に遷座し、現在にいたります。新宮は熊野川の河口付近に鎮座しています。その起源は新宮から1~2kmほど南に位置する神倉山(かみくらやま)のゴトビキ岩にあります。那智は現在、那智山中腹の高台にあります。古くは那智の滝の滝つぼ付近にあった修業場でした。このため延喜式神名帳には載っていません。

 

 これら三社はお互いに勧請をおこない、それぞれの場所で3柱の神を祀っています。これを熊野三山制度と言います。三所権現に五所王子と四所宮を合わせて十二所権現とも言います。

 

 また、五来重によれば「3つの熊野」に注目しなければならないそうです。3つの熊野とは、「山の熊野」「海の熊野」「窟の熊野」です。

「山の熊野」

 「山の熊野」というのは本宮のことです。本宮は山中他界による山の神が祀られていると考えられています。熊野川の上流に十津川があり、ここでは水葬の伝承があります。河原に墓をつくり、洪水で墓が流されてしまいます。水葬での死体が熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある大斎原に流れ着いたのかもしれません。このような死体を神格化したのではないかとも言われています。

 

 本宮の祭神である家都御子神のケは食べ物のことで、ツは「の」という意味と、祀れば豊作をもたらすという信仰から食べ物の神となっています。川の合流点や上流にはよく穀物神が祀られます。この例としては次の神社があります。大和の広瀬神社の若宇加能売命(わかうかのめのみこと)、出雲の熊野神社の加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけのみこと)も穀物神です。

 

 本宮のような霊山・霊場は、山を開いた開創者の伝承をもっているのが一般的です。狩人や山民、あるいは彼らに案内されて入山した高僧や修験者がその山を開いたとする縁起伝承です。「犬飼」「荒野の山の主」という猟師、山人に導かれて高野山に金剛峯寺を建てた空海がそれです。ここで猟師・山人は山の神を祀るシャーマンと考えられています。熊野権現垂迹縁起では、狩人の熊野千代定を本宮の山の神が大斎原の木の下に案内したことを記しています。

 

 同じく熊野権現垂迹縁起では、中国の唐の天台山、豊前国彦山、伊予国の石槌山、淡路国の遊鶴羽峰(ゆずるはのみね)、紀伊国牟婁郡切部山、熊野新宮の南の神蔵の峯、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷の順に勧請して奉ったと書かれています。ここで初めて「結早玉、家津美御子」と神名を表したのです。それから13年後に本宮の大斎場の一位の木末に月形で天下ったと言います。この縁起は、熊野の信仰が切部山、遊鶴羽峰、石槌山、彦山などの霊山に伝播したことを物語ったものです。

 

 山の神は、もともとは死霊が神となったものであり、仏教伝来以降、山の神が祀られる場所を浄土とし、山の神を阿弥陀如来とする本地垂迹説が発生します。このようにして家津美御子の本地仏は阿弥陀如来となり、また記紀に登場しなかった家津美御子は根の国の王であるスサノオと同一視されるようになります。このようにして阿弥陀仏を拝むと極楽往生することができるという浄土思想により、熊野詣が始まったのです。

 

 次回は「海の熊野」「窟の熊野」について説明します。

 

 

 

 

 

 

 

 道祖神は境界の神が起源となっています。実際にどのような神が居るのでしょうか。見てみましょう。

岐神(ふなどのかみ)

 日本書紀には、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが、「これ以上は来るな」と言って、杖を投げました。この杖を岐神と言います。一書九には、これを岐神という。この本当の称号は来名戸祖神(くなとのさえのかみ)というと書かれています。古事記では禊の時に投げた杖が衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)に変わり、岐神と同しとされています。クナドとは「来るなという入り口」の意味で、フナドノカミは「通過するなという入り口」ということです。イザナギとイザナミの間に発生した神で、地上と黄泉の国、生と死の国の間にある境界の神と言えます。

道反之大神(ちがえしのおおかみ)

 古事記では、イザナミから逃げるイザナギが、黄泉の国と地上である黄泉比良坂(よもつひらさか)に千引き岩を置きました。千引き岩は千人で引かないと動かないほどの大きな岩であり、道反之大神(ちがえしのおおかみ)といいます。黄泉の国の入り口を塞いでいるので塞坐黄泉戸大神(ふさがりますよみどのおおかみ)とも言います。岐神と同じく、黄泉の国と地上の境目を表す神となっています。

道俣神(ちまたのかみ)

 古事記で、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から生まれた神を道俣神(ちまたのかみ)と言います。日本書紀では開囓神(あきぐいのかみ)となっています。古事記伝では、延喜式にある道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしています。ちまたは「道股(ちまた)」の意味で、道の分かれる場所・いわゆる辻(十字路)や町中の道、物事の境目、分かれ目などを指しています。

岬の神・猿田彦

 柳田国男は、猿田という語は岬と同じと言い、古史伝に猿田はサダとなっており、島根県(出雲)の島根半島には、出雲の佐陀大神が鎮座しています。この付近は狭田の国と言われていて、西にも東にも岬があります。愛媛県(伊予)の佐田岬、鹿児島県(大隅)の佐多岬にも同じ地名があります。高知県(土佐)の足摺崎は、かつては蹉跎岬と言われていましたが、船人が大隅と区別するためにアシズリと変わったそうです。岬は地形的に海の国と地上との境界をなしており、猿田彦はこの境界の神なのです。

先導する神

 息栖神社の祭神である久那斗神(くなどのかみ)は、国譲り神話でタケミカヅチとフツヌシを先導しました。また、猿田彦(さるたひこ)は、天孫降臨の際、天の八衢(やちまた)に現れ、ニニギの先導役をしました。どちらも天と地の境界から地上へと先導しています。

 

 境界の神は、物理的障害、社会的障害に結び付けられています。物理的障害は、境界を通過する人にとっては障害であり災いをもたらす場所であるが、外来者から守られるという事であり、境界の内側に住む人からは社会的防御をなす存在なのです。旅人にとっては、境を開き、無事に越えさせてくれる存在、境界において障害を排除してくれるものが必要なのである。猿田彦のように先導してくれる神が大切なのです。これに対し、内側に住む者にとっては境界を越え、災厄をもたらすものから防いでくれるものことが神なのである。このような二面性があります。

道祖神の登場

 境を遮る境界神はドウソジンへと発展していきますが、この過程において、行路の神として境界を開く神の性格を習合していきます。夫婦神であることから性的な側面も習合させられました。塞ぐという意味の「塞」はさいと読みますが、サイの神がサヤとなり、やがて道祖と書いて、さい、さやと読むようになり、これがドウソジンに変わります。

 

道祖神の性格としては、以下のように多様である。

  • 邪霊厄神の防塞
  • 旅の道中を安全に守る神  
  • 縁結びと縁切りの神 夫婦でいる、イザナギとイザナミの神は別れた
  • 子供の守護神 道祖神の管理は子供によって行われた
  • 産の神、子授け、子育ての神
  • 性の神 婦人病・性病・腎臓病など 夫婦円満和合を深める
  • 増産豊作の神
  • セキ・たごり神
  • 芸能の神

また、道祖神の形態は、樹木、自然石、丸石、陰陽石、文字を刻む石塔、石像、石祠、社祠などがあります。

地蔵との習合

 大和・河内では境目をサイメと呼び、堺をサイといい、家の敷居をサイという例がありました。村の境には石のごろごろとするところがあり、幼い子供が葬られることもありました。早くから共同墓地であった京都の佐比の里のように、村の境には墓地がある場合が多かったのです。生者と死者、あの世とこの世の境に祀られる道祖神は、六道で遊行強化する地蔵と同一視されるようになり、現実のサイノカワラは地獄の賽の河原を彷彿させるようになったのです。

 

 このようにして境界の神はお地蔵様にまで発展しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前回は、稲荷山の三ヶ峰にあった社(現在の上之社神蹟・中之社神蹟・下之社神蹟)を現在の伏見稲荷大社がある場所(藤尾と呼ばれていた)へ遷し、もともとあった藤尾社を現在の藤森神社の地へ遷したところまでお話しました。この社の移動は、永享10年(1438年)、後花園天皇の勅命で、室町幕府6代将軍足利義教により実施されました。


 また、創祀縁起が2つあることもにもふれました。今回はこれらの縁起を深掘りしてみます。秦伊侶具の縁起ですが、「餅を的にして矢を射る」とあり、このことが悔いるべき過ちとなっています。餅とは鏡餅でしょう。矢を射ると勿体ないから過ちと一般にはに解されています。一説には、銅などの金属製の鏡は呪術に使用されていましたが、おそらく餅の鏡も呪術性があり、矢でいることで呪術性がなくなり、秦伊侶具が衰退し始めたと解する説もあるようです。

 

 この的が化生して白鳥となって、峰へと飛んで行って、「社と為した」わけです。この「社と為す」行為は、無名の社を秦氏勢力下の社としてしまったとも取れますし、伊奈利社という社を建てたとも取れますが、藤尾社という荷田氏由来の土着の社が建っていたことからして、これを秦氏勢力下においたと考えるべきでしょう。その後は社の木、すなわち稲荷信仰のシンボルとなっている社木の話になっています。これはおそらく杉の木なのでしょう。

 

 ここまでが秦氏の伊奈利社に関することで、秦氏は荷田氏が祀っていた土着神にうまく介入していく様がこの縁起から読み取れます。もともと社として建っていたとされる藤尾社について調べてみると、今は稲荷山の近くの藤森神社になっています。

 

 藤森神社には、神功皇后による三韓征伐にまつわる神である素盞鳴命(すさのおのみこと)、別雷命(わけいかずちのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)、仁徳天皇(にんとくてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰(たけのうちのすくね)、東殿に周辺地域一帯の「地主神」と考えられる舎人親王(とねりしんのう)、天武天皇(てんむてんのう)、西殿に怨霊や厄神を宥めるための御霊神である早良親王(さわらしんのう)、伊豫親王(いよしんのう)、井上内親王(いがみないしんのう)が祭られています。今から約1800年前に、神功皇后によって創建された皇室ともゆかりの深い古社で、歴史は伏見稲荷より長く、伏見区深草地区、東山区本町・福稲地区の産土神となっています。

 

 空海による、「藁を置く場所」や「十年を千年」のエピソードの通りに、土地を伏見稲荷大社に取られたらしく、ある意味で伏見稲荷大社とは切っても切れない神社となっています。そして稲荷大明神縁起に書かれているように、稲荷山の神は稲を背負う翁のような姿の神です。稲を背負っているので田の神のようにも見えます。

 

 蛇足ながら、昔は稲荷山山頂付近に祀られていた神社として、伏見神宝神社(ふしみかんだからじんじゃ)がありますが、こちらはあまり関係ないみたいです。ややこしいんですね。