最近の都知事選やメディア報道を通じて、石丸伸二という名前を耳にした人は多いと思います。京都大学卒、メガバンク勤務、そして安芸高田市長を経て、今や全国的に名前が知られる存在になった彼。けれども、私はこの「石丸伸二現象」を見るたびに、ある疑問が頭をよぎります。
 
「中身が問われないまま、学歴と肩書きだけで政治家としての信頼を得ることに意味があるのか?」
 
これは、決して石丸氏一人に限った話ではありません。日本の政界には、似たような“学歴ブランド政治家”が少なからず存在します。でも、果たしてそれでいいのか。今回は石丸氏を例に、少し考えてみたいと思います。
 
 
ブランドだけで勝負する政治家の「中身」
 
石丸氏は、京大卒の高学歴と銀行での海外勤務経験という、いわば「キラキラ経歴」で一躍注目を集めました。安芸高田市長として就任した際も、期待感は大きかったと思います。でもその後、市政運営や議会対応、そして都知事選に至るまでの言動を見ていると、「学歴・職歴以外の中身はあるのか?」という疑問が強まっていくばかりです。
 
特に問題なのは、議会との関係性。石丸氏は、市議会との衝突をたびたび起こし、ついには議会が2度にわたって否決した認定こども園基本構想の予算を「専決処分」で強行。この専決処分に関しては、法律上の違法性すら指摘されています。(参照:https://www.ben54.jp/news/1265)結局、自らの再選を断念し、市政を中途で投げ出す形に。
 
都知事選に転じた後も、報道に対して「切り取りだ」「悪意がある」と感情的に反発するばかりで、冷静な説明や反省はあまり見られませんでした。
 
 
信者的支持と「思考停止」の構造
 
さらに気になるのは、石丸氏を盲目的に支持する層の存在です。彼らは、石丸氏への批判に対して冷静に議論することなく、「老害」「嫉妬」「利権まみれ」といったレッテル貼りで封じ込めようとします。
 
こうした構図、どこかで見たことありませんか? 実は、立憲民主党やれいわ新選組、共産党、日本保守党、参政党の一部支持者にも見られる現象です。批判に対して「ネトウヨ」や「生活保護受給者」などと相手の属性を攻撃し、意見の正当性を否定する。
 
でも、たとえその人がネトウヨでも、生活保護受給者でも、一国民である以上、その声には耳を傾けるべきです。ラベルを貼って思考停止する態度こそ、実はとても危うい。
 
 
政治は「実務」であるという当たり前の話
 
冷静に見れば、石丸氏は政治家としての資質――特に、実務能力や説明責任、共感力といった面で多くの課題を抱えていたことがわかります。現地では、彼に感化されて県外から移住してきた支援者が選挙に出馬したものの、現実を知って「反石丸」に転じた事例もありました。その人物が信者たちから猛烈なバッシングを受け、精神的に追い込まれたという話も、決して他人事ではありません。
 
石丸氏の「自信」にも注目すべきです。議会で「市内3駅を統合するくらいの思い切ったことが必要」と市議を一蹴した際、その後に自ら思い切ったプランを出したわけではありません。**他人を否定することはできても、自分から具体案を出すことはない。**それが石丸氏の政治スタイルだとすれば、やはり長くは持たないでしょう。
 
 
「誰が言ったか」より「何を言ったか」で評価する社会へ
 
 
結局、石丸氏から「学歴」と「職歴」という鎧を剥がせば、残るのは中身の乏しさです。これは決して彼一人に限ったことではなく、政界にはこうした“ブランド政治家”がまだ多く存在します。けれども、もう「京大だからすごい」「海外勤務経験があるから有能」といった単純な判断が通用する時代ではありません。
 
私たち有権者が問うべきは、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」なのです。
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終わりに:石丸現象が映し出す日本社会の成熟度
 
石丸伸二という存在は、日本社会における「学歴信仰」や「肩書き至上主義」の残滓を映し出す鏡なのかもしれません。一方で、彼の実務能力の欠如が徐々に明るみに出て、支持が限られつつある今、私たちの社会が少しずつ「中身で評価する力」を取り戻しつつある兆しも見えます。
 
政治家に必要なのは、学歴でもブランドでもなく、現場で動く力、対話する姿勢、そして誠実な実務能力。そうした政治家を見極める目を、私たち自身が持たなければならないと、強く思います。