今年も残すところ、あとわずかですね・・・
今年は、支援の在り方が変化した、一年だったと思います。
それは、東北が大きく復興したのではなく、気持ちに合わせた支援、
東北魂が前を向いていく事のお手伝いに変わっていったという事が考えられるんじゃないかなと思います。
今年最後は、2013年に向けて、東北の声をお伝えしたいと思います。
以前、お伝えした南三陸での、被災にあった、ある方のお話しです。
被災地は、とても範囲が広く、個々に受けた心労も違いますので、これが全てではありませんが、
テープを元に、そのままをお伝えしたいと思います。
震災当初の話も含まれますので、思いだしてしまう方は、
白字の ↓↓ の部分は避けて読んで下さいね。
被災地に観光に行っていいの?
という声を聞きますが、どんどん来てください!
見てもらって、伝えてもらう事が大事
そして、自分に置き換えて考えてもらったり、多少でも、観光としてきてもらってお金をもらう、これもありです。
外野が、来もしないで色々言うのは嫌いだし、被災者は、今言ったみたいな気持ちでいます。
被災者の気持ちは、
忘れないでいてもらえる という部分だけでもありがたいので、どんどん来て下さい。
海産物もおいしいので、沢山食べていって欲しい。
↓↓
地震が起こってしばらくたった時に、南三陸は、ビルの4階まで津波に襲われ、4階の屋上にいても流される人がいて、病院のベットごと流され、なす術もなかった。
17回の津波に襲われ、車は流されるだけでなく、ぐちゃぐちゃにちぎれた状態で、家屋の倒壊率は8割 10人のうち8人は家がない状態。
電気、ガス、水道、役場、病院、警察、消防 全てが流された。
当初、1万人が亡くなったのではないかという報道は、公共的な施設が、下にあった為、全て流され、情報が回らなかったことが原因。
電気が来るまで3ヶ月、水道は4ヵ月、歯を磨いたのは1週間後、お風呂は3週間後。
1日2食 1個のおにぎりとスープ それも出るかどうかは解らないから、ペース配分をして欲しいと言われた。
この食事の中、家族が行方不明な方は、1日100キロを徒歩で探した。
動けるわけがないから、どうしたかというと、瓦礫の中に落ちてるお菓子や、カロリーの高いジュースを拾って、エネルギーの補助にした。
たまたま家族がいる若手の方は、数キロ先の隣町から全員分の物資を運んだ。
その他、まだ、顔とか名前が解るうちに集めようということで、遺体を運ぶ仕事もさせられた。
まさに、生き地獄だった。
↑↑
でも、さすが日本だと思ったのは、神戸の震災を経験しているから、いつのまにかボランティア大国になっていて、
こういった災害が起きた時に、助けようと思う人が沢山いたのが救いだった。
神戸の震災で、NPOが乱立していて、その団体がすぐに動き始めた為、
3週間もすれば、生きるに最低限な、3食が食べれるようになっていた。
それでも、人間だから生きていればいいや っていうわけではない。
やっぱり衛生的に暮したい。
その時、自分たちで集められる物は集めようと、役にたったのが ツイッターで、
ツイッターの拡散性で結構集まった。
安否確認も、友達がツイートしているのを知れば、生きているって知ることができた。
仮設に移るのに5ヶ月 17万人全員に仮設が提供された。
この早さは、神戸や新潟の震災を経験しているからだと思う。
皆で仲良く暮らしたい ということで仮設にコミュニティを作ろうと支援の方にお願いした。 仮設の集会所に人が集まり、使われ始めると、自然と仲良くなっていった。
コミュニティがとれなくて危険性があることは薄れてきた。
そろそろ、支援の形も変わりつつあって、物資の提供はもういいかな? という所まで来た。
そうなって、考えに余裕ができ、自分の家の事とか、町作りのこととか考えることができるようになってきた。
そうはいっても、まだ、木、一