(続き)
Q.
じゃあ、そこのズレを無くして、普通に聞こえてる、見えてるということで置いとくと、ごくごく普通の自分の日常のありようの本質にちゃんと触れることができるということですね?
A.
そうそう。
Q.
その普通のことをやって、普通のことに触れて、なぜ救われるのですか? なぜ苦しみが解決するのですか?
A.
苦しみが起こるタネがないでしょ。
Q.
でも、普通の日常は苦しみばっかり、悩みばっかりだから、そのすがたを見ても結局苦しみ続ける、悩み続けるということになってしまうのではないでしょうか?
A.
いや、それこそ勘違いしてんじゃないの?
普通のありかたって言うけど、普通のありかたって、音がしたら聞こえる、口にしたら味がするっていう、そういう普通と、「じゃあ普通だったら、悩み苦しみ迷いがある」ってのが普通っていうのと、違うようになるじゃない。
Q.
はい。
A.
私たちの普通って言ってるのは、それだったら悩むタネ、悩む材料どっからも出てきませんよっていうことじゃん。
Q.
そこらへんの勘違いが解けてないままの「普通」と、本当に伝えたいごく普通っていうのが、やっぱりすれ違いがあるということですか?
A.
すれ違いがあるということ。
Q.
本当の真相としての、特殊じゃないんだけど気付かない普通のすがた・・・。
A.
そう、気付かない。気付かないで、その中で生活をしている。
そのことに気付くか気付かないかという違いだからね。特殊なことを学ぶわけじゃない。
Q.
ということは、その本当の普通のすがたに、頭じゃなく体で実感として出会ったら、ああ、何も問題なかったということがはっきりするということですね。
A.
そうそう、そう。
そう。
考え方じゃあ、そこに行き着かない。
考え方が外れたら、いやでもそこにぶつからざるを得ないようになってる。
それが坐禅の、一番大事なとこじゃん。
Q.
人によって気付くのに時間がかかったり、逆に話を聞いた最初の日に気付いてしまったりするのは、頭でやってるかやってないかの違いですか?
A.
そうそうそう。
理解しようとしてやってると、それは、ズレっぱなしで時間がかかるねえ。一生かかっても無理なのかもしれないっていうことだし。
いかにその違いを早く知るかってことじゃん。
その(ノイズで不明)に、伝える側も、学ぶ側も、苦労してるわけでしょ。
Q.
じゃあほとんどの場合、勘違い、ですね・・・。接心の休憩時間なんかでも「できない、できない」ってよく話しますけど。
A.
勘違いがあるもんだから、今まで築いた、培ったものは、本当言うと、それをまずぶっ壊すことが先なんだよね。
それが壊れてもらわないと、勘違い解けないじゃん。それ大事にしてる間は。
で、そんなに簡単にぶっ壊そうとしても、ぶっ壊そうとすればより固く握るから。だから、ぶっ壊すってことは、やっぱり静かに坐ってもらうしかしょうがないんじゃん。
それで、自分で、それが取れていくじゃん。
だから一つ一つ、聞こえることにしろ見えることにしろ、によって人間の勘違いが、それで初めて解けていくじゃん。
解こうと思って解けるもんなら、だいたい誰だってそんなに時間かかんないで解けますよ。
解けないんじゃん。(笑)
Q.
十年も二十年も「どうやったら考えが止められるのか・・・」みたいな勘違いでウンウン唸りながらやってるのはもったいないですね・・・。
A.
もったいない。
「考えっていうのはしつこくて・・・」
って、みなさんおっしゃるじゃんね。
「他のことは出来ても、六感としての考えっていうことは難しくて・・・」
って言うけど、難しくないところの話をいつもしてるわけよ、私なんかは。
ねえ。
だから、どれほど自分の中で、一生かかったって取れないような、凝り固まったと思い込んでる、それこそ思い込みね、思い込んだものが、
「こんにちは」
って言った時に
「はい」
って言った時に、コロッと、取ったんでも、どうしたんでもない、取れたことすら知らないでコロッと変わっていってる。
こんなに、いとも簡単にね、コロッと、救われるっていうね、こんなに簡単に救われるような道があるっていうことは、恐らく、知らないよね。
それが坐禅をするっていうことの中、日常生活のありのままの中で、それに、必ず気が付くようになってるってこと。
(終わり)