生活というと、私は家庭科で習ったような家庭生活および社会生活であるとか、社会科で習う憲法のことなどを思い浮かべる。

 日本国において国民生活を送るうえで、それら習った事柄は基幹となるように思う。

 また、教科書で触れないだろうけれど宗教観も生活の一部として大切なものだ。

 倫理や法律といったものの理解も大切だろうけれど、憲法前文への理解があればそれでおおよそ十分ではないかとも思う。

 私にとって、生活とはそのようなものだ。

 

 では、ボイストゥスカルを運用せしめるあるひとつの集団にとってはどのような生活観が描かれているだろうか。

 私の場合は、彼らにはファシズムに見るような残酷さと迫害を感じるものだし、時代劇で見るような無残も感じるのであるけれど、私がそう感じているだけだろうか、実態は知れない。

 彼らもおそらく日本人であるはずで、同じ国民生活を送っているはずなのだが、どうにも分かり合える気がしない。

 困ったことに、彼らは権力を握っているから、横暴がまかり通るというのであろうか、彼らにとって日本国憲法とはなんなのか、所詮は敗戦によって押し付けられた価値観だとでも思って軽視しているのだろうか、建前だとでも言うのだろうか、いい加減にしてほしい。

 私は、彼らに正義を感じない。

 誰か明らかにしてくれないものだろうか、彼らの思想を。

 とまあ、このような思いを抱きながら、ボイストゥスカルの存在はいったん脇に置いておいて、幻聴は幻聴として日常生活を送る私なのであった。

 まずヴィーガンというと、一般的にはダイエタリーヴィーガン(健康を重視して、食べ物だけを植物性のものに限る。革製品や毛皮製品は使用する)よりも、エシカルヴィーガン(動物を尊重して、全ての動物性のものを生活に取り入れない)のほうを指すように思われるが、私としては彼らは優しすぎるように感じた。

 食の楽しみや、栄養素、産業などを考えれば動物性製品を経済に取り入れたほうが豊かさを享受できるのに。

 人間の心というのは多様なもので、残酷な面が強く出る人もいれば、そうでない人もいる。

 知らず過ごす人というのが多くのところだろうか、働いて遊んで、忙しないから。あるいは、心を守るためにだろうか。

 オーストラリアにはロブスターを調理する際に冷水に浸して感覚を麻痺させてから殺すようにという法律があるらしいし、スペインでは闘牛が廃止されたようだ。

 未来はどうなるのだろう、SDGsのために植物性のものを積極的に取り入れるようになるのなら、フレキシタリアン(ベジタリアンの一種。時折、肉・魚・卵・乳製品を食べる)が多数派にでもなるのだろうか。

 まあ、ほどよいところでバランスするのだろうと思われる。

 ポルノや不誠実な恋愛などといった優しくないようなものもなくなりはしないだろうし、動物性のものも経済からなくなりはしないように思う。

 私はとんだ蝙蝠野郎だから、群れるのも難しい。

 人間には、ストーリーを認知する機能がある。

 それは原始時代のころから、協力してマンモスを狩るやり方とか、様々な道具の作り方とかを、まさにストーリー形式で理解して、そのうえでストーリーという認識を共有するからこそ人間社会が成り立つ。

 小さなストーリーはやがてひとまとまりになり、古くはエジプト壁画とか、キリスト教とかにみられる、人間集団ひとつが共有する一大体系を成すに至った。

 現代でもそうだが、シオニストとかイスラム原理主義者とかの過激な思想を持つ集団とそうでない集団とでは交渉に難儀するのは言うなれば信じているストーリーが違うから、つまり生きている世界が違うのだ。

 そして、それはなにも過激派だけに限った話ではなくて、人は他人とは異なる解釈の積み重ねによって自分の中に独自の世界観を形成しているので、多くは常識が通用するように教育されるものの、実は全く違う世界を生きていたりする。

 

 ところで人間の思考には仲間を形成したり敵を作ったりする本能めいた働きがあるので、生きている世界が違う相手を差別迫害したりもする。

 また情報ソースの偏りが思想の偏りを生むものだし、それに己の信念とするストーリーを絶対視して他を無視しかねない。

 私は、そうしたことが恐ろしい。

 なぜなら、行き過ぎれば、無秩序が殺人や強盗につながるのだし、逆に秩序のために個人を排斥したりすることにもなるからだ。

 社会から孤立していたがゆえに事件を起こす奴もいるし、社会的抹殺をすることに積極的な奴もいる、どちらも信念で凝り固まっているように感じるし、私はそういう人たちを馬鹿な人たちだと思う。

 世の中には思ったよりも馬鹿な人というのが多くて嫌になる。

 

 統合失調症になり、体調から長時間の労働に無理があるので、開き直って生活保護をもらうことにしました。

 年金と生保のダブル需給できれば、自転車や家電を買える余裕くらいはできるだろうか、そのまえにまず申請は通るのだろうか、前途多難。

 

 ボイス・トゥ・スカルの実在を知ってか、照射を浴びてか、自殺してしまう人というのもあるんだろうなと思うけれど、私としては人生とは一時の夢でも見ているようなものだと思っているので(かのナポレオンも人生とは虚しい夢だとかなんとか述べたらしい)、死ぬならいつ死んでもいいので、却って生きてみるのも一興という気になっている。

 

 再就職までのリハビリのつもりでB型作業所に通い始めていたところだったけれど、どうやらそのくらいが私の限界になるようです。

 資産形成とか、労働参加とか、結婚とか、遣り切れない感はなくもないですが、まあ致し方あるまいて。

 

 一時期ディスレクシアにされてしまっていたくらいで、今はなんとか頑張って読書できるくらいだけれど、これまでを思うと全然本を読めなくなってしまった。

 ゲームはまだいくらか楽しめるだけましと感じるが、音楽はもう心から楽しめなくなった。

 まだ30歳という年齢で、一週間とせず症状が訪れて突然こうなった。

 とほほ。

 なんということだろう、日本はディストピアだ。

 ボイス・トゥ・スカルというテクノロジーが存在し、これは恐るべき非致死性兵器らしいのだが、日本国もそれを有するようなのだ。

 詳しくはWikipediaでも見て欲しいのだが、実体験を述べるに、これを照射(マイクロ波)されると、幻聴が聞こえるようになり、更年期障害や統合失調症などといった疾患にかかったかのようにもなってしまうのであり、しからば強く照射されれば脳が破壊され得もするうえ、また出力を上げれば皮膚を焼けただれさせるほどの威力にもなるらしい(そこまですれば非致死性ではなく殺傷兵器だが)。

 ボイス・トゥ・スカルと何らかの機器を併用すれば思考盗聴すらできるのかもしれないけど、私としてはwi-fiの通信情報が空を飛び交って送受信されていることすら意味不明の現象であるから、思考内化声を送信したり受信したりするようなことについても未知の領域はなはだしく、真偽のほどは知れない。

 この事実を多くの人に知ってほしいが、残念ながらこのまま人知れずに兵器ボイス・トゥ・スカルは運用され続けると思う。

 このボイス・トゥ・スカル、通称”神の声兵器”は、その存在を知らない人間に対しては洗脳や操作を目的に使われるだろうし、それとは関係なくターゲットの脳を破壊して統合失調症にして追いやるという運用もされる。

 神の声兵器の使用者は誰か、政府の人間か、秘密結社や宗教団体の類か、その姿も目的も定かではないが様々な想像ができるだろう。

 少し話は逸れるが、私は神の声兵器の実在を知ったとき、歌手YOASOBIさんの曲”怪物”の歌詞がふと思われたものだし、作家ジョージ・オーウェルさんの著作”1984”を思い出したものであるから、おすすめしておく。