毎朝のお勤めの後、藤田徹文師の「人となれ 佛となれ」ー四十八の願いー をくり読みしています。
昨年秋にひと通り読み終えましたが、もう一度読み直すことにしました。
今日のブログはその書写(現代版でスマホでの写しですが・・)です。
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すくいのめあて(十方衆生)
「設我得仏」といふは、もしわれ仏を得たらんときといふ御(み)ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。(尊号真像銘文)
十方とは、四方八方に上下を加えて、あらゆる世界ということ。
衆生とは、生命あるすべてのもののこと。
「十方衆生」とは、あらゆる世界の数限りない生命あるすべてのものということです。
阿弥陀如来の大慈悲の対象(めあて)は、こういう人に限るとか、こういうものだけという限定はありません。そこには国の違いも、民族の違いも、言葉の違いも、性別も、いかなる違いも問題にはなりません。
また、そのような悩みは、そのような問題はという、悩みや問題によって選別されることもありません。
色々の悩みをもち、それぞれの問題をかかえているあらゆる世界の、生命あるすべてのものが、阿弥陀如来の「どんなことがあっても見捨てることができない」という本願のお目当てなのです。
このようにいいますと、私たちは自分を外において、十方衆生を他人事(ひとごと)のように受けとりがちですが、親鸞聖人は、
「十方衆生」といふは十方のよろづの衆生なり、すなはちわれらなり。(尊号真像銘文)
と、自らのこととして受けとめられています。
さらに、「われらなり」とは、どのような我等かといいますと、親鸞聖人は、
よろづの煩悩にしばられたるわれらなり。
れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。(唯信鈔文意)
と、あきらかにしてくださいます。
阿弥陀如来の本願の目当てである「十方衆生」とは、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念証文)して、それらにしばられ、ひきづりまわされている私たちであり、毎日を目先のことにおわれて走りまわっている名もない、一生活者の私たちです。
それは丁度、誰からも注目されることのない、道端にころがっている石ころや瓦のかけらのような存在にたとえることができます。
誰からも注目されない、誰からも忘れられている石・瓦・つぶてのごとき私たちを、一時も忘れることなく、常に見護りつづけて、「どんなことがあっても見捨てることができない」と案じつづけてくださる阿弥陀如来のお心が「十方衆生」という呼びかけであります。
親鸞聖人はさらに、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、 そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめ したちける本願のかたじけなさよ。(歎異抄)
とよろこばれています。
「十方衆生」を「汝」と呼びかけてくださる言葉として「私一人」と受けとめられたのです。
「十方衆生」を私と受けとめるところに本当の私が自覚されるのです。そこに、真の独立者としての私が誕生するのです。
私たちは、いつでも「みんな」がそうだから、「他人」がそうしているからと、「みんな」の中に、「他人」の中に逃げこんで、自らの正体をごまかし、ついに自らの正体を見失っています。
「十方衆生」とは、「私」であったと受けとめるところに私が私になる道があるのです。
「みんな」が、「他人」がと、知らず知らずのうちに自らが荷わなければならない責任までも、「みんな」や「他人」の中に転嫁していく生き方の中で、私たちは自らを喪失していくのです。すなわち、私が私でなくなっていくのです。
問題は、「みんな」や「他人」の中にあるのではなかった、「私」の中にあったと、自らの問題として受けとめる生き方のなかに、私が私の人生を生きるということが実現します。
煩悩にしばられている「みんな」でもなく「他人」でもない。煩悩にしばられているのは正しく「私」であった。
石・瓦・つぶてのごとき「私」であったと、気づかされたとき、弥陀の五劫思惟の願は正しく「私一人」のためであったとよろこばずにはおれません。
「みんな」や「他人」の中に逃げこむのではなく、「みんな」や「他人」を荷負した私。その私が目覚めないかぎり、「みんな」わ「他人」のことをいくら論じても問題は解決しないのです。
「十方衆生」の中に逃げこんで、他人事のように「本願」をながめているようでは、一生「本願」に遇うことはできないでしょう。
「十方衆生」を荷負した私が「本願」を救われていくことが、「十方衆生」が救われることの証(あかし)なのです。
「十方衆生」と呼びかけてくださる声は「汝一人がほっておけない」との阿弥陀如来の呼び声なのであります。
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左の余間の壁にヒビが入ってました。
屋根にブルーシートをかけてもらうつもりでしたが、かえって風でブルーシートが飛ばされたり、その周りの瓦がズレたりするそうで、屋根はそのままにしています。
余震がおちついてから、瓦の差し替えをしていただく予定です。
梅雨になる前に何とか応急処置をしておかなければー。
本堂の正面の柱が微妙に変化しているようです。
記録のために定期的に写真を撮っておくことにしました。









