どちらがいい?
ユリか、ローズか。
もし誰かに聞いてみるとしたら
きっとその人の好みによって答えは変わるでしょう。
ローズがいい、と答えるかもしれないし
もしかしたら、ユリがいいと答えるかもしれません。
または、両方。とも。
でも、それがなんだっていうの?
ーその通り。
これは議論するまでのことじゃないけど、
それでも私達には、時々。そんな議論がおきる。
真実は、
それぞれの花はそれぞれ美しく
ユニークな特徴を持つということ。
単純にこの2つを比較することは出来ない。
私がユリだとしたら、あなたはローズ。
ユリはローズよりも素敵?
それとも、
ユリよりローズの方が素敵?
そこに真実の答えはない。
比べる事なんて出来ない。
もし他人と自分を比べそうになった時、
この言葉を思い出して。
花は隣の花と比較して、
勝ち負けを決めるために咲いているんじゃない。
花は、ただ、咲いているのだ。
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この言葉は、私の大好きなself-welnessに関することを発信している Aileenという女性の方の言葉です。
いつも心を豊かにしてくれる優しい言葉やヒントを発信してくれるので、大好きで長年彼女の言葉を聴いています。
それに関連した話をしたいなーと思って、今日はまた独り言のように文章を綴ろうと思います。
誰だって人と比べて、優越感に浸ったり悔しい思いをしたり、時には憎いと思ってしまうほど屈辱感を味わうことも人生一度くらいはあるでしょう。
その感情が良い方向に向き、尊敬の気持ちも伴っているのであれば、大いにポジティブ感情として受け入れるべきだと思います。
ただ、これがマイナスに向いてしまうときがある時。
なんであの子は〇〇なのに、とか
私の方が〇〇なのに。とか
どうせ〇〇なんでしょ。とか。
こんな感情を持ってしまうのであれば、他人と比較しないようにしていくべきではないかと思います。
私は専門家でもなんでもないので、何も細かく書く事はできないですが、実体験として他人と比較して自分自身を苦しめてた時期がありました。
カナダに来て1年半目くらいの時。
考え過ぎて他人と比べ過ぎた時期があって、それは友達だけでは収まらず、外を歩いているランダムな知らない人とまで自分と比べていました。
自分にだって友達はいたし、パートナーもいたし、楽しく働ける職場もあったのに。
それなのに、勝手に楽しそうに街を歩いている人をみては勝手にその人の生活を妄想し、自分の生活と比べて、自分の方が劣っているんじゃないかと感じて悲しくなったり。
なぜかわからないけど、ふと泣けてきたり。
あの頃は精神的にもちょっと参ってたのかなと思います。
今考えればなんであんな風に思ってしまったんだろうと思いますが、あの時は鬱になってしまうんじゃないかというくらい落ち込んでいたものです。
でもカナダでのこの精神的に落ちていた時以外は、比較的そういう感情を持つことがなく、気持ちが平穏に保てていると思っています。
もちろんここに来る前にも、ある程度の大人になるまでは比較的、他人と比べて自分を見下したり、少し優越感に浸ったりということが時々ありました。自分が幸せと思うことは見て欲しいし、自分が気分が下がっている時には他人の幸せがよく思えない。
でもどんどん歳をとるにつれ、そんな考えも思い付かなくなってきました。いい意味でも悪い意味でも、あまり周りを”比較の”対象として見なくなったのでしょう。
他人の良い所、真似したい所、尊敬できる所、逆にこういう風に私はしないようにしよう。などと思うことはあっても、自分と比べるというよりかは、他人はその人でしかないというように考えられるようになってきたのかなと思います。
年齢に関しても、気にならなくなったきっかけがあります。
日本で働いていた時、私が管理職だった頃。
その頃の部下全員が年上でした。それまでは年齢が気になったりして勝手に心の中で年齢による差をつけていましたが、あの頃経験した、年齢は関係なくしっかり信頼関係が築ければ、みんなついてきてくれるという事。あとは、年下だからと年齢で色眼鏡をかけずに接してくれた部下の存在がどれだけ温かみのある事なのか、実体験があったから余計に年齢は気にしないと思えるようになったのかもしれません。
もちろんカナダに来てからは、まず始めに年齢を聞くということは日本人同士でもしないので、どんなに若い子にタメ口で話されても全く何も思わなくなりました。笑
たまに最近の日本のスラングを言われて分からないと、ジェネギャだ〜って言われて、イラっとするくらい。笑
今時の大学生の言葉は、知らないのよ。
それでもそういう年齢の色眼鏡を外して喋ると、すごくいい子やしっかりした意思を持ってる子が多く、優柔不断な私はよくその子達に相談をしたりもします。
日本にいたらなかなか友達として出会えなかった年齢差の子とも知り合えたのは、良かったな〜と思います。
この点に関しては、日本に帰って出会った人で仲良くしたいなと思う人がいたら、そこに年齢のバリアを張らずに今後接しられたらなと強く思っています。
そして、何と言ってもSNSをあまり見なくなった。というのが一番大きいかと思います。
昔は何かあるたびにインスタに投稿!友達のストーリーをチェックして、とか、なんだか心がざわざわ忙しかった。
最近はインスタの投稿も半年に1回くらいになってしまったし(ストーリーは月に2〜3回あげるけれども。特にほろ酔いの時とか。笑)
他人に干渉しないことが、自分の心を自由にすることがわかった今、そこまで積極的にやりたいなーと思わなくなってしまいました。
もしかしたらまたハマってやり始める時が来るかもしれないけど、今のところはSNSに囚われない生活が快適で好きです。
SNS(スマホ)依存症について調べたことがあるのですが、SNSを常日頃頻繁に開いては閉じてを繰り返す人は、常に誰かからのメッセージやお知らせ、いいねを期待して待ち構えている状態。そこにはmaybeの魔法というものがある。
もしかしたら返事が来てるかも。
もしかしたら更新されてるかも。
そんなもしかしたらが積み重なって、最終的にお知らせが来た時にはテンションが上がりドーパミンも多く排出される。
その時の、キターーーー!という感情は400%のドーパミンを排出しており、これはコカイン使用時のドーパミン量と同量だそう。
この状態を長年続けていれば、常日頃携帯やSNSをチェックしないと生きていけない状態になる。
そこにもし自分の気持ちが私が以前経験したような他人と比べてしまう感情を重ね合わせたら、とてつもなく自分が経験したくもない感情を私は手に入れてしまう気がします。
でもこんな状態って誰にでもありえることですよね。
見なきゃいいのに・・・って思うけど見てしまう。
そういう時は、その通りで見なきゃいいのだけれども、すでにスマホ依存症になってしまっているから見ないわけにはいかない。
見ないことすらも、自分にとって負の感情をもたらしてしまうからだ。そして見てまた、比べて落ちる。
このスマホやSNSの依存性については、多くの海外の研究者がスピーチやインタビューを行なっています
見ているとすごく興味深く面白いので、気になる方は調べてみてください。
・・まあ、そんな私もきっとYouTube依存症です。笑
でも言い訳をするとしたら、それは自分の感情を乱すためではなく、自分の知識を増やすための勉強の一教材として使っているので、いいかなと思っています。
YouTubeを観ていて他人と比較したり、そういう負の感情になったことはほぼないですしね
だから、なるべくくだらない動画(とはなんでしょう、すみません。)は観ないようにしています。
一度観ると自分のトップページに関連動画が出てきてしまって、ちょっと目障りなので・・・
(他にいい言い方がない。けど言いたいこと伝わるでしょうか。)
どんなSNSであっても、自分にプラスになる使い方をしたいですね。とにかく私個人的には、FacebookとInstagramをあまり開かなくなり、ストレスフリーになりました。
そして私の仲良しの友達は、割とアナログでこぞってみんなSNSにあまり興味のない方々なので、近況があればメッセージや電話でやり取り!になってるのもいい事かなと思います。
こんな状況を続けているので、たまにチェックするSNSも穏やかな気持ちで見られるし、素直に良かったね!とか、すごいね!と思えるようになりました。やっぱり自分の心に余裕があることって大事。余裕がないと、周りの人の気持ちをわかろうとする余裕なんて出来ないですもんね。
最後に私の好きなショートフィルムを貼り付けておきます。
20分間の短い映画ですが、そこに詰められた感情は深いものがあります。
自分の家から見える隣のアパートメントのお家の中。
カナダのバンクーバー、ダウンタウンでもあるあるの話ですが、窓が大きいので近隣のアパートメントの家の中が常日頃丸見えです。何をしているのかもすぐわかっちゃうし、家族構成もバレちゃう。
そんな近隣の家庭を観察しながら起きていく心情の変化、衝撃の結末で考えさせられることがあります。
日本語字幕はないですが、英語があまりわからないという方でも雰囲気だけで十分この映画の意図が伝わるかと思いますので、時間があればご覧になってみてください。
全くまとまりのない内容ですが、以上です。笑
今日も皆さんが生きた心地のする素敵な1日を過ごせていますように