こんにちはニコニコ



目標としていた34週ですハート



今日は入院最後の1日(予定)。

シャワー浴びて荷物まとめておかなきゃ。



リトドリン点滴 →   内服薬に変更してからの体調の変化は、やっぱりお腹張りますね真顔

(点滴>>>内服薬だから、張っちゃうのはしょうがないとのことでした。)



夜中と朝方にはお腹の張りを感じて、陣痛カウンターで計測しながらお願い張らないでお願いとお腹をかかえて祈りながらの就寝でしたアセアセ






いつのまにか寝落ちして、またお腹の張りで目を覚ましたりしましたが、10分間隔の張りは続いて無さそうだったのでひとまずは良いのかな…キョロキョロ








猫しっぽ猫からだ猫あたまビーグル犬しっぽビーグル犬からだビーグル犬あたま犬しっぽ犬からだ犬あたま






最近、夢に亡くなった母が会いにきてくれました。

なぜか私はもう出産済みで、母が赤ちゃんのお世話してくれていて私は見てるだけ。笑

これは私の願望なのでしょうか?キョロキョロ





時は遡って、もう13回忌も終わっているのでそれくらいは前のお話しです。




病院に入院しているといろいろと考えること思い出すことが多くなるんですが、母の入院生活ことを思い出していました。




乳がんでした。




胸に腫瘍が見つかり大きさはピンポン玉くらい。

乳房切除をするしかありませんでした。



1年後にはリンパへの転移がみつかり、抗がん剤治療や怪しげな血液治療(保険効かないやつ)をしたりしましたがなかなか良くなることもなく、入院生活がはじまりました。



うちは10代の頃に両親が離婚をしていて、まだ20代前半で仕事が忙しかった私は母の治療のことは、あまり詳しくは理解できていなくて今になってもっとしてあげられることたくさんがあったなって思います。



当時私はブラック企業に勤めていて、帰りも遅いし週一のお休みはほとんど寝て過ごし、母のお世話をするなんてことが考えられないくらい激務でした。



闘病中の母は、そんな私の姿を見かねて医療事務などの求人広告を見つけては私に勧めてきてました。本当にどっちが心配かけているのか状態です。



母が入院した病院は、家の近くではなく私の勤める会社から車で5分くらいの総合病院だったので、私はお昼休憩は病院で母と過ごすことが日課になっていました。




ただ日に日に痩せて弱っていく母。

薬と病気の影響で考えがまとまらなかったり、ちゃんとしゃべれない母を見ていると、お昼ごはんも美味しく食べれなかったし、車でたった5分だったけど仕事が立て込んでいる時は行くのが億劫になることもしばしば。

それでもなるべく顔を出せる日は病院に立ち寄っていました。




母が亡くなったあとに、私が激務でも会いに行きやすいように会社の近くの病院を選んだことが日記に書いてあって、そんな思いで病院を選んでいたのか思うと、もっともっと時間をつくって会いにいけばよかったのかなって思いました。


 


私自身なかなか入院ってしたことがなくて、今回の切迫早産で2週間以上の入院ほぼベッドの上で過ごし、コロナ禍で面会もままならず、不安になることもありました。




母が入院していた時は、薬の副作用やどんどん癌のステージが上がって行くことでもっともっと不安だったと思います。

頼れる夫もいなくてまだ20代前半の私や兄に弱音を吐けるわけもなく。辛く孤独な戦いだったこと今ならほんの少しでも分かってあげれたのかもしれません。




当時は仕事ばかりで、母の病気についても分からないことだらけなのに学ぼうともせずに、なにも分からないまま病気が進行しているのをぼーっと側で眺めているだけの私。

余命宣告もなくあっという間にこの世からいなくなってしまうなんて思ってもいませんでした。




責任感が強くて、弱いところは決して私や兄に見せることのなかった母。いつ泣いていたんだろうと思うと今でも胸が苦しくなります。




母子家庭でも仕事や家事を当たり前のようにこなして、金銭面でも子供の私たちに不自由な思いをさせてことも一度もなかったと思います。




私ももうすぐ母になります。




お母さんみたいにしっかり者の母になれる自信はないし、いつまでも甘ったれでわがままな私だけど、わが子を抱いた時にお母さんの気持ちが少しでも分かるかな?



いつまでもお母さんのことを忘れずに心で思うこと、お母さんからもらった愛情をちゃんと受け継いでいくことでちょっと遅めの親孝行になるかな?




また夢の中に会いにきてください。




では、またニコニコ